今月の秀句 大山雅由
子らよ今帰り来て見よこの植田 長井 清
新潟に通いはじめて十数年経ちますが、車窓から眺める越の田の表情にはいつも旅のこころを慰められます。田植えの時期がちょっと遅れたといっては首をひねり、青田に鷺の群れ飛ぶのを見ては安堵の笑みを浮かべないではいられません。
作者は、新潟の方。その私生活は詳らかに承知しませんが、親元を離れたお子さんたちはそれぞれの家庭を持って都会暮らしをなさっておられるのでしょう。越の青田の中に立って作者は、このゆたかな土地のありがたさにこう呟く外はなかったのです。
特に原発事故の後の東電の対応やさまざまな発表をみていると、どこに真実があるのかと憤りを感じないではいられません。このゆたかな国土が汚されてしまったというのに、為政者も東電の首脳部もまるで他人事のような非人間的な発言に終始しているのをみると腹の底から忿りが湧きあがってきます。こうした状況だからこそ、作者はこの呟きを句に言いとめておきたかったのではないでしょう。目の前にひろがるゆたかなを原風景をいつまでも胸に止めておいて欲しいと願っているのです。
何もかも持つてゆかれて夏の果 羽鳥洋子
「何もかも持つてゆかれて」というので、この句も、今回の地震とその後の原発にともなうものかと思いましたが、必ずしもそうではないようです。句の作られた背景ははっきりわかりませんが、作者の心にできたぽっかりとした虚脱感は、この時代の多くの人々の心持を代弁しているかのように感じられます。作られた当人にそうした意識があったかどうかは不明ですが、原発事故によって引き起こされつつあるさまざまな不安を象徴しているような句といえるでしょう。まったく個人的な句でありながら、いつのまにか社会性を持ってしまうというような時代を先取りした句とも言えるのではないでしょうか。
鬼百合の咲くや黒雲山越えて 森田京子
四国への旅で詠まれたものでしょうか。写生の効いた句です。高原に出かけた人はこんな景をよく目にするのではないでしょうか。
手前に「鬼百合」がクローズアップされて、背景には山頂から黒い雲がぐんぐん湧き上がってきます。天候の急転を思わせて、一句のなかに景がふくらみ迫ってくるような気がします。読み手にそう思わせたらこの句は成功したと言えるのです。
玉の汗銜へし釘をつぎつぎと 森井和子
この句も景がくっきりと浮かんできます。暑さの最中、工事現場の大工たちがもくもくと作業をしています。いわゆる在来工法の現場で、大工さんが金槌でつぎつぎに釘を打ち込んでいく景を思い浮かべました。
今は多くの家つくりの現場では、カーペンター(大工)ではなくパネラー(そういえば2×4工法ではパネルを沢山使います)と呼ばれる人たちがどんどんパネルを組み立てて短い工期で出来上がってしまいます。エアーガンで釘を打つ音がシュパッシュッパと聞えてきますが、その釘も口に銜えているのでしょうか。「玉の汗」といういかにも人間臭い季語が、いわゆる大工さんの作業を思い起こさせます。
小玉西瓜にN極とS極と 関口道子
作者は新潟の方です。新潟の海岸沿いは西瓜の一大生産地となっています。関東ローム層と呼ばれる黒い土になれてしまっているものには、新潟の畠はことさら白っぽく見えます。これは砂が多く混じっているために白く見えるのすがで、この地味は水捌けがよくて西瓜の栽培には適しているようです。
小玉西瓜に「N極とS極と」とはよく言ったものと感心しました。蔓の方がNなのかSなのか現実にそうなのかどうかは理科系でない筆者には分かりませんが、そう言われればどことなくおかしみがあって納得してしまいました。
天道虫一歩歩くか一飛びか 木原正則
「天道虫」に限りませんが、虫というのはじっと見つめているとけっこう面白いもので時間の経つのを忘れてしまいます。みな同じように見えますが、じっと焦点を凝らしているとそれぞれに個性があるように感じられてくるから不思議です。蟻などもみな一生懸命に働いているかと思うとちょっかいを出して邪魔をしたり、こいつサボっているのかななどと見えるものもあって飽きません。
天道虫の次に動き出す直前の一瞬にうまく焦点を当てました。何も言っていないのですが、その動きが手にとるようにはっきりと言い止められました。
俳句は多くのことを言う必要はありません。ほんの一瞬の景を切り取って言い止める・・・これが肝心要なのです。
蟷螂の斧振り上ぐるあらぬ方 宮坂明男
こちらも虫の句です。「天道虫」は動き出す一瞬をとらえましたが、こちらはもうすこしゆっくりとした動きを描き出しました。
「蟷螂」はかまきりです。かまきりが「斧振り上ぐる」というのは、前脚をふりあげることですが、中国の古典では「蟷螂の斧」というのは、小さなカマキリが大きな車に向っていくというので、「微弱な力量をかえりみずに強敵に反抗すること」と「広辞苑」には出ています。
実際の景をみて詠んだのですが、しかもその斧を振り上げたのが「あらぬ方」というのですから、寓意をこえてなにかもの悲しさが見えてくるような気がしてきます。
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