今月の秀句 大山雅由
波郷忌や受賞のをのこ多弁にて 木林万里
第三回石田波郷俳句大会の新人賞は三〇歳の涼野海音氏(「火星」)が受賞しましたが、開成高校の十六歳大塚凱氏が「はなびらのやうに」で準賞となりました。選考会の模様は作品集に掲載してありますが、大塚氏も積極果敢に独自の世界を詠み込もうとしておられ、選考委員の中には大いに評価する方もおられました。
作者は、お子さん二人が開成高校で、その一人の担任が、偶々、選考委員をお願いした佐藤郁良氏でした。偶然のことでしたが、俳句の縁の妙とでもいいましょうか、第一回目から、開成高校の皆さんが最終選考に残り、清瀬に来られることから、その都度、作者はささやかながらプレゼントをされておられるとお聞きしました。今回から催されることになった懇親会では、高校生らしくはきはきと受け答えする学生服姿の大塚氏にみな好感を抱きましたが、この句には、やさしく応援する母親の目というものが感じられました。
ひしひしと遡上の鮭の叫びがほ 篠原悠子
北海道ではほんの三尺ほどの流れを鮭が遡上すると聞き、三面川などのような大きな川でしか鮭の遡上をみたことがありませんでしたから、驚きました。でも、鮎ではそれを経験していたのですから、思い込みというのはあるものだと反省もさせられました。
鮭は産まれ故郷の水を忘れず何千キロの旅をして帰ってくるといいます。命の営みの神秘としか言いようがありませんが、その遡上を「ひしひしと」と捉え、「鮭の叫びがほ」とクローズアップで捉えた作者の顔もさぞや水面近くにぐっと近づいていたに違いないと思うといささかの滑稽味も浮かんでくるではありませんか。必死さのなかにそこはかとなく感じられるおかしみ・・・これまさしく俳の精神です。
青みかん愛憎すでに遠くして 斎藤八重
作者の人柄とそのやさしさにあふれた眼差しから生み出される俳句の世界には「隗」の誰もが魅了されてきましたが、この句にも、老境に入ったひとりの女性の感慨が淡々と表出されています。
時には激しい感情を顕わにすることもあった夫、それに反発した娘、その間でひとり悩んだこともあった・・・でも、その夫は不帰の人となり、娘もそうした父親を理解する年となって、自分はこうして「青みかん」を剥きながら、「そんなこともあったわねェ・・・」と思いにふけっているのです。
「愛憎すでに遠くして」と言い切るまでにはどれほどの時の経過がいったのでしょうか。言葉では言い尽くせない諸々の事どもを、省略し余白に残せばこそ読者の胸深く言葉はしみこんでくるのです。
近く、作者は句集『銀の匙』を上梓の予定です。期待して待ちましょう。
初秋刀魚みなと稲荷へ奉る 長井 清
どこの浜でしょうか、初秋刀魚が上がりました。さっそく、産土のお稲荷さんへ捧げるのです。漁と生活が密接に結びついている日々の営みが窺えます。漁も大漁だったのでしょう。喜びの声が聞こえてくるようです。
それにしても、今年の秋刀魚の味はひとしおでした。東北大震災の為に、いつも三陸から送られてくる秋刀魚はついに届きませんでした。それでも、近くのスーパーで買ってきたやや細身の秋刀魚を箸にして、せめてもの漁師さんの無事を祈りました。
きっと、この浜の人たちも無事に漁をできることをみなと稲荷に感謝したことでしょう。生活の一コマ一コマを五七五に詠み止めていくということが、積み重なってひとつの大きな塊となっていくことが、俳句という文芸を豊かなものにしているのだとあらためて思われました。
好日やうなゐ髪照る甘藷畑 山本武子
いつもは静かなサツマイモの畑に、今日は、小さなこどもたちの声が響き渡っています。きっと近くの幼稚園のこどもたちでも来ているのでしょう。
「うなゐ髪」は現代では「おかっぱ頭」、幼い子とでも考えておいたらよいでしょう。畑にひろがった子どもたちはおおきなお藷を手に歓声を上げている
のです。おおらかな「うなゐ髪照る」という措辞が、「好日や」という詠嘆を引き出しました。日頃からの言葉に対する目配りが功を奏した一句と言えましょう。
長き夜や仏の酒を飲み干して 猪口鈴枝
作者には、しばしば酒の句が登場します。酒どころ新潟の女性ですからもともと御酒は嗜まれておられるのでしょうが、「仏の酒を飲み干して」というところが、なんとも「あはれ」を誘います。ご主人を亡くされてから、どれくらい経ったのでしょうか。老いの時間が過ぎるのはゆっくりです。位牌に向かえば、出会ったころのこと、子育てに大変だったあのころのこと、次から次に様々なことが過ぎります。秋の夜長・・・時間はたっぷりあるのです。
「あらあら、あなたのお酒も、わたくしがいただきますわ。もうちょっといただいたら、また、一句詠んでみましょう・・・」
若き街かぼちやランタン灯さるる 佐藤禮子
作者のお住まいになっておられる辺りは、若い世代の家庭が多いのでしょうか。近代的なエコタウンも近くにできて、話題になったと聞きますから、そんな街の景を詠んだものでしょう。
筆者などは「ハローウイン」には馴染みがありませんが、元々はケルト族の収穫祭(一〇月三一日)が、アングロサクソン系の国々で広く行われるようになったようです。この夜は死者の霊が家族を訪れ、精霊や魔女がやってくると信じられたところから、若者は仮面を付けて盛り場に繰り出し、子供たちはカボチャのランタンに蝋燭を立てお菓子をもらって近所を回るなどという風習が起こったといいます。
若い世代は欧米の新しい行事を気軽に取り入れて、楽しんでいるようです。
そこで問題は「かぼちやランタン」です。まだ、歳時記には登録されてはおりません。しかし、季節感はありますから、ここでは諒としておきましょう。新しみは俳諧の命。芭蕉さんの時代にラムネはなかったのですから。
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