今月の秀句 大山雅由
着ぶくれて我と思へぬ己が影 佐山 勲
ふとした折に、ショウウインドーに映った自分の姿に、はっと胸を突かれる思いに見舞われることは、誰しも経験することでしょう。「老い」はなかなか自分では認めたくないとはいうものの、緊張をといている無防備な己の姿を、目の当たりにした時の思いというのは、大方が共感するところではないでしょうか。
作者も、健康の為に毎日のウオーキングを欠かさないようです。日本海を越えてくるシベリア颪のきつい時期、砂山からの帰り道は、夕日ラインに沈む太陽が「己が影」を長く描き出しています。後ろからの影が、なお一層、「着ぶくれ」の己を強調するように写して、ぎょっとさせられたのです。
潮騒の闇近くあり干菜風呂 渡辺らん
「干菜」というのも、最近はあまり見られなくなりました。田舎の冬の軒先には、大根や蕪が荒縄で括られて下がっていました。むかしの人は、新鮮な野菜の手に入りにくい季節には、その葉っぱを刻んで味噌汁の具やお粥に入れました。
青き色の残りて寒き干菜かな 高浜虚子
風の月壁はなれ飛ぶ干菜影 西山泊雲
干菜湯や世を捨てかねて在り経につ 日野草城
この干菜を、老人や冷え症の人の為に、体が温まるというので湯に入れたのが、干菜風呂です。筆者も幼いころに祖父母の家で入ったことがあるのを思い出しました。蜜柑の皮を天日に干してお風呂に入れたのは、多くの方が経験していることでしょう。
作者は、日本海に面した鄙びた宿にでも泊まったのでしょうか。「闇近くあり」といっていますから、来し方行く末に思いをはせながら、暖かさがじんわりと沁みこんでくるのを楽しんでいるのです。
薬喰なりと僧正人喰ふ 長井 清
何と豪快でユーモラスな句ではないでしょうか。今でも仏教界では肉食を禁じているのかどうかは詳らかにしませんが、「いやァ、これは薬喰じゃよ」とぺろりと分厚いステーキを平らげているのです。
きっと般若湯の入った盃を片手にしていることでしょう。まさに人を喰った一言です。僧正というのですから、きっとお坊様でも位の高いかたなのでしょう。そんな方が、何の屈託もなく、却ってあっけらかんとしていて、いっそ小気味いいくらいです。
きっと明るくてたのしいお寺さんなのでしょう。
蘭学の書生なりけり薬喰 正岡子規
薬喰わりなき人をだましけり 大須賀乙字
時にはこうした忘れ去られようとしている季語を、改めて詠んでみるのも、却って新鮮に感じられるかも知れません。
待春のセロの奏でるセレナーデ 榎 和歌
「せ」の音の繰り返しと開口母音の組み合わせが、のびやかな調べを持っていて、いかにも「待春」に相応しい気持ちのいい句となりました。
「セロの奏でる」は歴史的仮名遣いでは「奏づる」でしょうが、そうすると「づ」の音がやや重く感じられるのではないでしょうか。どうしてもここは「奏でる」としたいところです。「見上げる」は「見上ぐる」が正しいとは分かっていても、近頃は、やや迷うところでもあります。謂わば口語的歴史的仮名遣いとでもいうような曖昧なものが多く見かけられますが、必ずしも歴史的仮名遣いでとぴしゃりと言えない場合があるのも事実です。
「いつもにこにこ厳格主義!」を標榜してはいるのですが、その句のリズムによってはケースバイケースで考えて行くべきかとも思い始めているこの頃です。
ふるさとは日溜多し寒雀 崎啓子
作者のふるさとは九州とお聞きします。かの地が、とくに日溜が多いということはありません。いつもは都会で忙しく生活している作者にとって、久しぶりで帰ったふるさとの日は、ことのほか、暖かく感じられたのです。日常の瑣事からも解放されて、手持無沙汰の作者は、庭の雀に心がひかれました。ふるさとの暖かい日差しに抱かれている「寒の雀」は作者の姿そのものでもあるのです。何も難しいことは言っていませんが、その中心に作者自身がいるのです。
ひとり居の鬼も呼びたき節分会 平山みどり
節分会とはいいながら、近頃は、「鬼は外、福は内!」という大きな声を聞かなくなりました。子供たちが小さいころには、隣近所にも子供たちがいて、一軒の家が「鬼は外・・・」とはじめると隣も負けずにということもありましたが、子らの巣立ってしまった今では、そんな声を聞くこともなくなりました。
作者はご主人を亡くされてからの、ふっと感じたさびしさがこうした句になったのです。
「鬼も呼びたき」には切実感が胸に迫ってくるようです。
しかし、近々離れておられたお子さんの家族とご一緒の生活に入られるともお聞きしていますから、そのうち子鬼たちのにぎやかな攻勢にうれしい悩みが漏れてくることもきっとあることでしょう。
大寒の大鍋洗ふ修行僧 吉澤銚子
おそらく平林寺あたりで目にした光景でしょう。大寒のぴりっと引き締まった空のもと、ぴかぴかに磨き上げた大鍋の底が目に浮かびます。若い学僧の頬をつたう汗までも見えてきます。まったく無駄のない「くっきりすっきり」とした句になりました。
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