今月の秀句 大山雅由
目も口も鼻に集めて夏蜜柑 山口文美
いかにもすっぱい夏みかんの感じがよく詠めています。「目も口も鼻に集めて」の描写がいいですね。その瞬間がいきいきと描かれているだけではなく、何とも言えない滑稽味があります。夏蜜柑を口に入れた瞬間の顔が目に浮かぶようではありませんか。
夏蜜柑いづこも遠く思はるる 永田耕衣
憎しみのごと爪立てて夏柑剥く 後藤綾子
右の句のように、心理的なものを詠み込んで仕立てるのもいいのですが、その表情となると、なかなかに難しいようです。
眉に力あつめて剥けり夏蜜柑 八木林之助
ところで、季語の「夏みかん」ですが、「夏」とはありますが、春の季語です。実は「秋」ですが、収穫は「春」になります。間違いやすい季語のひとつですので注意しましょう。
足ひとつ浮かせて象や南風 渡辺らん
こちらは、練達の士による一句です。何一つ大仰なことは言っていません。象がひょいと「足ひとつ浮かせ」た、というばかりです。その一瞬なのです。
俳句に意味は要りません。ふっと見かけた一瞬を俳句の目で、しかと一句に言い止めることが大事なのです。
「足ひとつ浮かせ」た、だからどうしたということは要らないのです。「南風」だからといって、暑くて足を上げたわけでもありません。 この句は、どんな時に、一句ができるのかを語ってくれているのです。みなさんもじっと考えてみてください。
立葵鯨の戒名祀りをり 永島正勝
作者はほぼ三か月にわたり、クルーザーを操っての西日本航海の旅をして来られました。その途中の詠です。
場所はどちらか承知しませんが、かつては勇魚(鯨)とりで賑った港町があったのでしょう。「鯨の戒名祀り」というのですから、締め込み一本で勇魚に向かってむしゃぶりついていった時代のことなのでしょう。
はるか遠い昔の勇壮な勇魚とりの物語が、その港町にはまだ密かに語られているのでしょう。やや小高い丘の上には立葵が咲いて、あたりには夏の日がいっぱいに溢れているのです。
死ぬること知らずに逝きぬ時鳥 遠藤 忍
人の死は、予測がつきません。長期間病床生活を余儀なくされて、死期を予知しておられる方もありましょうし、長年患っているにしても、その死が身近に迫っていると自覚しない方もありましょう。
年の初めに、筆者も、恩師を亡くしました。その奥様の仰るには「自分では死ぬなんてことはまるで考えなかったでしょうね。ふっと逝ってしまいました・・・」と、タクシーの隣に座っていながら気づく間もなく、すっと亡くなられた様子をお話し下さいました。
ご当人にとって、それが、幸せであったかどうか、わかりません。苦痛が全くなかったということがせめてもの慰めといえましょうが、人の生き死にについていろいろと考えさせられる出来事でした。
作者は、そうした死に「時鳥」の季語をもってきました。この季語の斡旋についてはいろいろと考えることができるでしょうが、時鳥の鳴く声の明るさに、作者は心ひかれたのだと考えます。その突然の死を、夏の光の中で明るく送る声として聞いていたのでありましょう。
初蝉とただの二文字日記帳 山内直之
「初蝉とただの二文字」を日記帳に記したのみであったというのです。作者に何があったのか何も言っていません。このあたりが、にくいところですね。いろいろと述べないことによって、どうぞ勝手に想像して下さいと読者に任せてしまっているのです。俳句は余白の文芸ですから、何もかも言ってしまったら、想像力の反落余地がなくなってしまいます。
「秘するが花」「言わぬは言うにいやまさる」というわけです。
遺言を聞きとる窓辺蝉しぐれ 直之
納骨の終りし墓や夏日くわつと 直之
同時に、右の二句がありますから、看護に追われていたのかもしれません。まだ現役でお仕事をされていらっしゃいますから日常の瑣事に忙殺されていたのかも知れません。
一切を省略することによって、却ってふくらませる。これ俳句の骨法です。
窯口のあがる火の手や明易し 肥田木利子
どちらの窯でしょうか、作者は、一晩中焼き物の作家とご一緒したのでしょう。焼物は火との闘いです。炎の色を見極めながら、一晩中火を焚きます。炎が窯の口を赤々立ち上がります。緊張を強いられる瞬間です。
「明易し」とありますから、そろそろ窯の中では決着がつきつつあるのでしょうか。
雨の午後教材の蟇三度鳴き 山田泰造
これは何とも馬鹿馬鹿しいくらいの句です。なんのはからいなく、ぶっきらぼうに投げ出したような句ですが、そこはかとない面白さがあります。「教材の蟇」が雨の日に三度鳴いたというのです。教材は、作者が、教育界の人と知っていれば、なるほどとなりますが、何故「三度」なのかなどと問いを発しても仕方がないことです。
俳句の材料がなくて・・・足も悪くなってきて旅に出ることもできなくなって・・・などとおっしゃる方がいますが、それは、俳句の目で物をみていないということだと自戒しましょう。題材は目の前にあるのです。五感を働かせて、身の回りをじっくりと見てみましょう。ただ漫然と見ていてはダメです。俳句の目でみましょう。あらたな目で見つめましょう。
俳句は大仰なことは言えないのです。むずかしいことは言えないのです。俳句が言えるのは単純なことなのです。意味を伝えようとしなくていいのです。ちょっとした真実、こころの動きを言い止めるのが俳句なのです。不真面目ではダメ、だからといって真面目すぎるのも頂けません。そこが面白いではありませんか。
月赤き夜をなめくぢりてらてらす 内山玲子
蛞蝓、なめくぢり 梅雨が上がろうとするころにちょとじめっとしたことろから這い出してくる。山道などで太さが親指ほどで五寸ぐらいの大きなものを見つけたときにはびっくりしたものですが、最近はあまり見かけなくなりました。「月赤き夜」というのも、いかにもと思わせます。赤い月の下、朽木の上でしょうか、這ったあとが銀色の粘液にてらてらと光っています。
ちょと垣間見た景を五七五で詠み止めたら、何でも俳句にならないものはないのです。あとはいい句であるか否か・・・だけです。
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