今月の秀句 大山雅由
かもめ食堂灯の煌々と夏の暁 篠原悠子
一読、景がくっきりと浮かび上がってきます。どこの港かはわかりませんが、北海道釧路の景でもありましょうか。「かもめ食堂」と看板が上がっていて、朝早くから港で働く威勢のいい漁師たちのこえも響いています。まだ、お日さまも顔を出していないに違いありません。
山雀の一番鳴きや夏の暁 長谷川かな女
水飲んで天上くらき夏あした 酒井弘司
こうした作品にはない、生活がいきいきと活写されていて作者にはめずらしい句となっています。これからは、こうした題材も積極的に詠んで作品の幅を広げていって欲しいものです。
鬼灯の花や隠れ子忘れられ 玉井信子
鬼灯は梅雨の終り頃からうすい黄色の花がぽつぽつと開きだします。
その花を眺めているうちに、子どものころの隠れ鬼を思い出したのでしょう。明日のことに思い煩うこともなく無心に遊ぶ子どもたちは、夕暮が近づいていることも知らずに遊びにふけっています。あたりははったと暗くなり、誰かのお母さんが遠くで呼んでいます。その声を潮にみんな散りぢりになってしまい、この子は一人ぼっちで忘れられてしまいました。作者は、そんなこともあったわねェ・・・とふるさとの父や母や幼い日の誰彼をなつかしく思い返すのです。鬼灯は、そんな回想を誘うような花なのです。
水の色空の色とも銀やんま 佐藤禮子
蜻蛉の種類はどのくらいあるものでしょうか。生物学的な名称も数多くありましょうが、生息している場所によっても呼び名がかわることを考えると、おそらく百を超えることでしょう。その蜻蛉の中でも最も大きいのが鬼やんまで、黒に黄色の虎のような斑をくっきりと浮かべています。それよりややちいさめでオスの腹の面が銀色に輝くのが銀やんまです。
作者はどこか山間の沼のあたりで目にしたのでしょうか。
日の光にあたった銀やんまは、空を飛べば空の色、水を飛べば水の色と同化してしまうようでありながらも、その翅はきらきらと輝いてます。その感動を瞬時に言い止めました。
担ぎ手の去りて艶増す神輿かな 菅澤俊典
俳句をはじめた頃には、歳時記を片手に、年中行事はもちろんのこと、祭りという祭を追いかけてあちこち繰り出しました。角川照子先生は特に三社祭が大のお気に入りでしたので、何度もご一緒しました。ちょっと横町に入ると順番をめぐって担ぎ手同士が押し合いへし合いの喧嘩をしていて、怖いもの見たさも手伝って面白がったものでした。深川八幡に佐川急便が寄付した神輿を担ぐのに三千人の担ぎ手が必要だと話題になったのはいつ頃だったでしょうか。
ひと頃にくらべると、祭も随分と違ってきました。かつてはあちこちに喧嘩祭と言われるのがあって、神輿を故意にぶっつけあって怪我人を出し、町内の家に神輿を放り投げるというような物騒なものもあったように記憶していますが、何事にもおとなしやかになってきた時代の風潮なのか、いまどきは、そんな荒っぽい祭や神輿はみられなくなってきたようです。
「担ぎ手の去り」却って「艶増す」と見たのが、お手柄です。熱気に浮かされた祭の余韻がいっそう色濃くただよってくる句となっています。これもまた省略の妙と言えましょう。
軍港の波ぴちやぴちやと夏の逝く 岩本晴子
軍港というとどちらでしょうか。東京近辺だと横須賀あたりでしょうか。昨今は、日本の南海方面での緊張が高まりつつあるようですが、他の国に比べてみれば、憲法第九条をもつ日本海軍はいたってのんびりとしているのではないでしょうか。波も「ぴちやぴちやと」という措辞からでしょうか、「かもめの水兵さん」を連想してしまいました。こう解したからといって、決して茶化しているわけではありません。むしろそのくらいの方が望ましいと思っているのです。かつてベトナム戦争真っ盛りの頃、仕事で佐世保に行ったことがあります。ふっと気が付いたらジャズバーで日本人の客は自分ひとり、周りはすべてベトナム休暇の黒人兵だった時の、言いようのない奇妙な感覚がしばらくの間消えなかったことを思い出しました。南西諸島をめぐっての右傾化の発言を聞くにつけても、「軍港の波ぴちやぴちや」であってほしいものと願わずにはいられません。
鉢花の二束三文秋めける 森田京子
なんで「二束三文」なのかと思いましたら、そうか、夏の花が終わるのだなと合点がいきました。言ってみれば理屈のようなものですが、日常の生活の中では、こんなことで季節の移ろいを感じているのが大方なのだろうと妙に納得させられてしまいました。
こうしたほんの些細なことから、五七五を生み出していったら、句材はどこにでもころがっているといういい例ではないでしょうか。
脊柱管狭窄は無し蛞蝓 井上 睦
そりゃあ、そうですよ。蛞蝓ですもの。脊柱管狭窄なんてある筈はありません。でも、こういうばかばかしい句を真面目に作るのが井上睦という作者なのです。他の誰が、言ってみれば当たり前の、こんなばかばかしい句を作るものですか。
いつもこうではいけませんが、偶には、こんな句があってもよいでしょう。
足元を流るる雲やケルン積む 逸見 貴
山頂や境界に石を積み上げるのがケルン。登山道や分かれ道の目印にしたりもします。最近は中高年の山登りがブームのようになっていて「山ガール」なる言葉も流行っているようです。ガールというから若いのかというと五・六十歳代だというから驚いてしまいます。いや、これは脱線。作者は秩父の好青年です。念のため。
かつては山岳信仰や修行の為に登山(山入り)したところから、関連のケルンも夏の季語となっています。スポーツや健康のための登山の時代となっても、自然に触れ、雲や霧の流れに向う時、山の神聖に打たれるということは誰にでも納得できることです。
忙しい日常や街の喧騒から逃れてケルンを積むとき自然に対すす畏敬の念で自然に頭を垂れるのでしょう。
ぴちぴちとピーマンをどる厨かな 富岡美和
作者の一人暮らしも大分長くなってきたようです。周りの人は気遣っていろいろと言ってくれますが、一人暮らしも慣れてくると、これでなかなか気楽でいいもののようです。一人には一人のたのしみや発見があるのです。庭畑から採りたてのピーマンだって、こうして炒めたら、ぴちぴちを踊ってくれているのです。こんなことも五七五のリズムにのせたら詩になってしまうのです。
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