2012
今月の秀句11月・12月

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 今月の秀句 (11・12月号)

 

長き夜の昭和をおもふよわりかな     長井 清

 

 上五の「長き夜の」で、ブレスのような軽い「切れ」を

置いて中七座五へとつながっていく形です。作者の感慨に

共感される方々も多くなってきているのではと想像されま

す。

 世の中が重苦しい閉塞感に蓋がれているとき、貧しくは

あっても希望を胸に「明日こそは」と明るく生きていた時

代を思い返しているのは、やはり身の弱りがそうさせてい

るのかもしれません。

   ふるさとへ廻る六部は気の弱り 

 こんな句を覚えたのは、藤沢周平の文章ではなかったか

と思うのですが、それも中年という齢を意識した頃のこと

だったような気がします。

 

  牛追ひの大声響く秋夕焼         内田研二

 

 作者は、この秋、サンチアゴへの巡礼の道を歩いてきた

ようです。近代合理主義の世の中に生きている現代人にも、

聖なる地の山や川や霧のなかに、聖なる神秘を見出したい

という衝動が突き上げてくる瞬間があるようです。フラン

ス国境からピレネー山脈を越えると、「そこはアフリカ」

です。荒涼とした聖なる道―「サンチアゴへの道」が始ま

ります。

 もう三十数年前になりますが、その中ほどにあるカス

テーリャの都ブルゴスのサンタ・マリア大聖堂を訪ねまし

た。冷たい雨の日で、排気ガスに汚れたレリーフを見上げ

ながら門扉を入ると小さな結婚式が行われている最中だっ

たのが、記憶に残っています。

 南の明るい色調のアンダルシアと違ってスペインの北の

地方は、黒が基調で重々しく沈んでいます。その夕焼けの

中、牛を追って農夫が過ぎゆきます。まるでヨーロッパの

中世が不意に出現してくるような気にさせられます。

 

  魚偏のつかぬ魚食ふ九月尽      きょうたけを

 

 作者は、急な入院を余儀なくされたとお聞きしました。

病院食でもありましょうか。「魚偏のつかぬ魚」とはどん

な魚でしょう。いろいろと想像させられるところです。

 さて、「九月尽」ですが、言うまでもなくこれは旧暦の

ことです。今年の「九月尽」は十一月十三日で、立冬は

十一月七日です。新暦の「九月が終わった」という意では

ありません。秋が尽きていったなァ・・・という秋を惜し

むこころ持ちをくみとらないといけません。「三月尽」と

いうのも、これと同じで過ぎゆく季節を惜しむ気持ちの表

れです。

 

  あはだち草身から出た錆もてあまし    細見逍子

 秋の野を真っ黄色にそめるのは外来植物の背高泡立草で

す。固有の植生を駆逐してどんどん広がってきてもう北海

道の一部まで侵食しているようです。しかし、この泡立草

にも、思わぬ弱点があります。同じ地に三年も続けて咲き

誇ると、まさに身の内の毒によって自ら枯れていくのです。

あれだけはびこっていたのに、どうしたのだろうと首をか

しげる方もいらっしゃることでしょう。

 とは言え、どこやら人の身に似ているような気もしてき

ますが・・・

 

  穴惑見てより少し気弱なる        榎 和歌

 

 「穴惑(あなまどひ)」とは夏になって姿を見かけた蛇が、

そろそろ寒さを感じだして、ねぐらの穴を探し惑っている

という、俳句独特の季語です。女性の方々は蛇は苦手のよ

うですが、「その蛇でさえ、惑っているのに・・・」とは

作者のこの頃の感懐でもあるのです。

 

  日盛や自力で立てぬぬひぐるみ      金田典子

 

 縫いぐるみが自力で立てないのは当たり前なのですが、

それに「日盛」をもってきて言い止めたのがお手柄といえ

ましょう。「取り合わせの妙」とはこのことです。むずか

しく考え込んではいけません。意味にたよってはいけない

のです。俳句は「言い止める」・・・これに尽きるのです。

 

  呼鈴や跳ねたる鮎が玄関に        河井良三

 

 「鮎くれて寄らで立ち去る」という蕪村の句もあります

が、中七の「跳ねたる鮎が」に免じて秀句としました。類

想と思っても敢えて採ったのは、ぴちぴちと跳ねる景が眼

前のものとして見えてきたからです。

 

  ハトロン紙知らぬ店員文化の日     和田久美子

 

 もう「ハトロン紙」が分からなくなってきているのに驚

かされます。しかも言わばプロの文具店の店員なのですか

ら。俳句もこれからどうなってしまうのでしょう。季語は

農耕の文化を基底にしているのに、今の子どもたちには農

にしたしむどころか都会では土の地面を探すのさえ難しく

なってきているのです。季語を伝えることが文化を伝える

ことにもなるのだと思うと、俳句の存在はますます重いも

のになって行くように感じられます。

 

  大曼荼羅描ききつたる秋の蜘蛛      篠原悠子

 

 蜘蛛の巣を大仰に「大曼荼羅を描ききつたる」と誇張し

たところが妙と言えましょう。それが「秋の蜘蛛」であっ

たのも、どこか「もののあわれ」を感じさせます。妙にと

ぼけた味もあって、手腕の冴えを見せました。

 

  熔岩原や金剛杖の影涼し        飯島千枝子

 

 「熔岩原(らばはら)」という表現も俳句以外で使われる

ことはないでしょう。どこの山かは分かりませんが、北軽

井沢の鬼押し出しなどを思い浮かべたらいいでしょう。登

山のときに手にするのが、金剛杖です。その杖の影が「涼し」

と言っています。ちょっとした発見を言い止めました。

 

  涼風や巣立ちの小鳥膝の上        佐山 勲

 

 またしても「鳥飼の勲」の句です。小鳥たちがつぎつぎ

に勲氏に集まってくるというのですから、不思議です。親

鳥が子に譲って飛び去ったというのにはますます不可思議

の思いを深くしないではいられません。

 

  賑やかに闇に人をり流星         清原伸江

 

 今年も何度か流星群を見るチャンスがありました。五月

には金環食もありましたし、この頃は天文ファンもかなり

多いようです。さっと流れた星に一度にワアッと声があ

がったりして闇の中に多くの人がいるのに驚いたことがあ

ります。高原の夜空を眺めていると、天の川を同時に三つ

の人工衛星が渡っていくのも見えました。青春時代に、荒

木一郎の「空に星があるように」を聞いていた所為かもし

れませんが、星空を見上げるのは実にいいものです。