2013
今月の秀句8月-101号

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今月の秀句             大山雅由  

 

船着けば市となりけり桜鯛      佐山 勲

 

「桜鯛」は、桜の咲くころに産卵期を迎えた鯛が、婚姻色で桜色に染まるところから言ったものです。「桜うぐ」や「花うぐひ」というのもこの例です。

俎板に鱗ちりしく桜鯛       正岡子規

よこたへて金ほのめくや桜鯛    阿波野青畝

作者は、新潟の人。ちかくには内野漁港などがあり、「船つけば市となりけり」という措辞は実に的確であり、過不足がありません。漁師たちの喧騒と、それを遠巻きにする人々の活き活きとした生活が活写されていて、これより他に言いようのないものでしょう。その土地に生き、その土地への愛着の深い句となりました。

 

囀や虚子に始まる新講座       小山洋子

 

いかにも新講座に相応しく近代俳句の巨匠高濱虚子の句を例にとって開始されたというのです。

筆者も、各地で「はじめての俳句」講座を開いていますが、俳句の大事な要素である「挨拶」を説くのに、虚子の「慶弔贈答句」を必ず紹介することにしています。俳句というものの本質を、もっとも簡潔に理解するのに適していると考えるからです。

この「はじめての俳句」のことを言ったのではないでしょうが、「さもありなむ」と納得させられます。それに「囀」の季語がいかにも新年度らしく、よく効いています。あかるい中で俳句のスタートが切られました。

 

二階より九九の暗誦今年竹      肥田木利子

 

これはまた、いかにも瑞々しい句となりました。小学生が掛算の九九を学ぶのは二年生からのようですが、大きな声で九九を唱えているのでしょう。

波郷俳句大会のジュニアの部のために、毎年小中学校に出前授業をしていますが、小学校低学年の生徒たちの一途さには心が打たれます。とにかくまっすぐなのです。子どもたちの学ぶこころを正面から受け止めるには、大変なエネルギーが要るのだと実感しますが、全身で訴え応えてくることに感動すら覚えます。

学校によっては、まだ「あいうえお」も十分ではない一年生に「はいくというのはね・・・」とやるのですが、次の年に、教室に入ってすぐに、「はいくってどんなものだったかな」と聞くと、即座に「五七五!」「きご!」と大きな声で返ってきて、「では、書いてみよう」と言ったら、ためらわずにすらすらと五七五にします。まさに「鉄は熱いうちに打て」があてはまります。余計なことを考えずにまっすぐなのです。

二階からの九九の暗誦も、もっとも大事な算数の基礎となるわけですが、先ず躓くのもこの九九の暗誦のようです。時間さえかければ誰でも出来るようになるのですからゆっくりとおおらかに育てて大きく伸びることに期待したいものです。この「今年竹」のように。

 

貧しくも平凡がよし花野蒜      山田泰造

 

作者は、長年中学校に教鞭を執り、第二の人生を送って病後を養っているようです。この年になって人生を振り返ると、「そう華々しい処もなかったけれど、無事に乗り切ってきたものだな」と感慨深いものがこみあげてくることでしょう。これからまだ二十年は生きるのですから、おおいに人生の花を咲かせて欲しいと願っております。

 

田の神の降り来る兆し初桜      内田研二

 

遅い春のやってくるみちのくを旅した折の句のようです。東京では三月の中旬から桜が咲き始めましたが、東西に長い日本列島では、五月の連休すぎでも、まだ開花には至らないところがあります。初夏のころになってやっと初桜を迎える地方では、季節はあっという間に通り過ぎ、もう田の準備をしなくてはなりません。

「田の神の降りくる兆し」とはよく言ったもので、秋になって山に籠っていた神様は、春、田の神となって降りてくるのです。季節のうつろいと人々のよろこびが句から伝わってくるようです。

 

蛍袋光と影をビーカーに       佐藤禮子

 

逸見貴氏から「お花の展示への招待状です」と言われて、驚きましたが、人には隠された才能があるものだと認識を新たにいたしました。材料の野草はすべて自宅の山から摘んできたものだといいます。花器は在り来たりのものではなくて、すべてオリジナルなものばかり。ビーカーやフラスコ、時代物の旅行鞄や三面鏡の化粧台など・・・それにさり気なく活けられた花は、いつもの野にあるのとはまったく違った表情を見せて愉しませてくれます。その驚きが一句となりました。

あの時の感動が再び甦ってくるようです。

 

襟足に赤黒き蚊やいかがせむ     平野和士

 

最近、「隗」の俳句に限りませんが、俳句がまことに生真面目であることに些か驚いくことがあります。「俳諧のまこと」ということもありますし、真摯に人生に向き合って、真・善・美を追求するということは大事なことではあります。

もちろん、不真面目であれというのではありませんが、あまりに生真面目でこれでいいのかと思うことがしばしばあるのです。

俳句の要素としての、山本健吉の言う「挨拶・即興・滑稽」の「滑稽」という面が軽んじられている面があるのではないでしょうか。元々「俳諧」というのはそれほど生真面目なものではなかった筈です。

波郷大会の句にしても、そうなのですが、選者をふっと微笑ませるような句にはなかなか出会えません。これはある意味では、芭蕉の言う「軽み」ということにも通じて来る根本的な問題でもあるのです。

俳句は文芸です。写生を基として、想像力や機知を縦横に働かせて五七五を詠んで行ってもいい筈です。真実は虚と実の間にあるのですから、頭をもっとやわらかくして詠んでみることを試みるのも悪くはありません。

この句は、そんなことを考えさせてくれるきっかけになるに違いありません。

 

父の日や柄のすててこ如何にせむ   大畠 薫

 

最近は、若者向けの「すててこ」が大々的に売り出されて、TVコマーシャルが流されていますので、父の日のプレセントが、このカラフルな「すててこ」だったようです。

しかし、作者の年齢では、これはあくまでも室内着であって、外出にはどうしてもためらいがあるのです。世代間ギャップといってもいいでしょう。その心の隙をさっと一句に仕立てました。不易と流行といいますが、まさに流行の句でありましょう。