2013
今月の秀句9月

TOP


 

今月の秀句             大山雅由  

 

故郷へ届け白雲朴の花        髙﨑啓子

 

登り来た山道を振り返った時などに朴の花にであうと、それまでの疲れが一掃され、気持ちもあらたに歩みがはかどるといった経験は何方にもあることでしょう。

乳白色の莟も端正で美しいものですが、近寄っていくと花の意外な芳香に驚かされます。

岨道の高くかかれる朴の花       富安風生

この風生句の光景が、作者の目の裏に焼き付いているのでありましょう。望郷の念を白雲に託しました。

 

明易や木綿のシャツの肌ざはり    岩本晴子

 

「短夜」は当然のことながら「明易し」となるのですが、これには、
  元来「後朝(きぬぎぬ)」のニュアンスが込められておりました。

短夜の残りすくなくふけゆけば

       かねてものうき暁のそら   藤原清正(新古今巻十三)

だからと言って、この句にあてはめてみようとするつもりはありません。

でも、そんな心持で読んでみると、この句の景もちょっと変わって見えてきて面白いではありませんか。

「木綿のシャツの肌ざはり」が、妙な現実感をもって迫ってくるような気がしてきます。詠み手の狙いはともかく、読み手は、想像力をふくらませて勝手気ままに自由に空想してみるのも、脳のリフレッシュになるのではないでしょうか。

 

更衣白きに秘するものありて     細見逍子

 

これも意味深長な句です。「白きに秘するもの」とはなんでしょうか。

「更衣」に際しての、あらたな出発・覚悟・決意・渇仰・欲望・その生理と心理・・・・

思いつくありとあらゆるものが、この一句に取り込まれていってしまうということに驚かされます。

俳句は省略の文芸。余分なものをはぎ取って単純化するからこそ、もっとも小さいものが、却って、大きな世界を内包しているというこの不可思議。だから俳句は面白い。

 

ゆく末をなんじやもんじやの花に問ふ 須賀智子

 

「なんじゃもんじゃ」という木については、地方によって各説あるようです。くすのき、かつら、ぼだいじゅ・・・等々。

東京では青山練兵場(現神宮外苑)の「ひとつばたご」が昔から有名だったようです。「たご」というのは「とねりこ」のことで羽状複葉であるのにたいして、こちらは単葉であるところから「ひとつばたご」と言われるそうです。花は栴檀のような集散花序で、白く目立つので場所さえ知っていればすぐに見つけられます。土地の人に聞くと大抵は親切に教えてくれます。

作者は、この後の「ゆく末を」この花に問うと言っています。世の中一寸先は闇、そんなことは誰にも分りはしません。でも、ふっと「どうなるのかねェ」とつぶやいてみたい時は誰にもあります。

「なんじゃもんじゃ」(場所によっては「あんにゃもんにゃ」とも)という音がなんとも呪文めいていいではありませんか・・・「アブラカタブラ」、もしかしたら人生の扉が開けるかも、知れません。

 

授業中どこか遠い目梅雨明け後    川戸直美

 

作者は中学校の先生。そう言えば、三鷹の中学校に俳句の出前授業に出かけたのも、梅雨明けの後でした。天文台に隣接して、緑の畑地にかこまれ、窓からは竹林の葉ずれが聞こえてきます。

顔は教卓を向きながらも、目は「どこか遠い」ところを漂っているのです。この鋭い観察はやはりベテラン教師の目でなくては捉えられないものでしょう。

将来の進路への悩みや友人関係の悩みなど、十四・五歳の少年少女の複雑な心の在りようが「どこか遠い目」に象徴されているのです。

「梅雨明け後」という季語の置き方がなんとも微妙なところです。不安と期待、何かが起こる夏休み直前の子どもたちの心理状態まで映し出しているのです。

一句のなかで、季語は不思議な作用を起こします。

 

青胡桃岩波文庫手にとらず      板谷文木

 

これもまた、こころのデリケートなバランスが垣間見えるような句です。青春の頃にあれほど読んだ岩波文庫であったのに、このごろは手にする機会もめったになくなったようです。

「青胡桃」とありますから、信州や山梨あたりに避暑にでも行っているのでしょうか。子どもたちがそれぞれに巣立ち、仕事も控えめになってきたこの頃ですから、もう一度じっくりと読み残した岩波文庫に目を通してみてはいかがでしょうか。

 

あぢさゐの森に入りて小人めき    山口文美

 

いつも目の高さに見ている花木が野や山にあって、見上げるほどになっているのを目にすると、驚くと同時に、その植物本来の姿とはこうだったのかとあらためて考えさせられます。この春、箱根の成川美術館の帰りに旧道で見た大木の馬酔木の群落に驚かされました。遠望したそのまっ白な花が馬酔木だったと気づいたのは、車を降りて、特徴のある花をまじまじと見た時だったのです。いつも庭木やどこかの庭園で見ているのとは違って見上げた大木の先の方に花が集まっていたのです。

「あぢさゐ」もそうでした。いつもは目の高さ位のものしか見ていませんから、栃木市近くの太平山で紫陽花をみた時には、その丈の高さに驚かされました。身長の二倍・三倍もの丈がありました。それが参道の両側にびっしりと咲いているのです。

この句は、清瀬高校の紫陽花祭で詠んだものでしょうが、小柄な作者のこの時の驚きが、「小人めく」と言わせたのでしょう。

 

ちやんばらのまくなぎ相手きりもなや 平野和士

 

夕暮の公園でしょうか。子どもがまくなぎに向って玩具の刀を振り回しているのです。いや、もしかしたらそれは作者本人であったかも知れません。

「まくなぎ」「めまとひ」「ぬかが」など言い方はいろいろですが、ひとかたまりになって目の前につきまとわれると、これほどうっとうしいものはありません。

まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる   西東三鬼

まくなぎの群れはひつぱりあひにけり 藤本美和子

「俳諧は三尺の童にさせよ」という芭蕉の言をまつまでもなく、作者の無手勝流にはなみなみならぬ手練(てだれ)の技が隠されているようです。

 

実家といふものすでになし豆ご飯   飯島千枝子

 

実家(「さと・じっか」)という言い方はいつごろからあったのでしょうか。生まれた家という「生家(せいか)」という言葉は、ほとんどの出産が病院や参院で行われるようになって、いまや死語となっているようです。

社会状況によって、家族というものの在り様は大きく形を変えていくようですが、子どもたちが巣立って家庭を持ち独立していくと、自身の実家との関係は徐々に薄れ、子の家族との日常的なつながりの緊密さの方に軸足が移ってゆくのは、自然なことであるようにも思われます。もっともこれは、その地方や年齢によって大きな違いがあることでしょうから、筆者の勝手な感想に過ぎないかも知れません。

そんな現実を、作者は、なつかしさとさびしさの綯交ぜになったような複雑な思いで受け止めています。「すでになし」という措辞に万感の思いが込められているのです。

 

昼顔や十七人の住む島に       永島正勝

 

時間に余裕のある時には、いつもクルーザーで旅に出ている作者らしい句となりました。俳句のなかに数字を詠み込むのは、むずかしい処があります。俳人という人種は、どうかすると臍曲がりが多いようで、数字が入ってくると、何か一言いわないではいられないというような向きもないとはいえません。

しかし、この「十七人」というのは、言い得て妙な数ではないでしょうか。島の大きさもなんとなく想像できるような気がしてくるから不思議です。

いかにものどかな島の船着き場には、昼顔が咲き広がっているのです。