今月の秀句 細見逍子
月代や小指で撫でる猫の眉 逸見 貴
月代は月白ともいい、太陽が西の空に沈み、辺りが宵闇に包まれる頃、東にのぼってくる月によって空が白んでくるそのかすかでほのかな時間を表す非常に繊細な季語です。作者は、その時刻、何かに凭れながらその空間に身を置いて、刻一刻と変わる空の色を見るともなく眺めているのです、愛猫を抱きながら。無意識のうちに動かした小指の内側に数本の猫の眉毛を感じ、その指を上下させている。何とも贅沢な夕刻の過ごし方ではありませんか。作者が若い男性であればなおのこと、作品に透明感が加わってきます。
野分して地球の吐息の入れ替る 須賀智子
これはまた、何と壮大な発想でしょう。野分は台風のことで、この語には芒や稲が大風によってなぎ倒されているというイメージがありますが、「地球の」となると、まさに通信衛星から送られてくる台風情報のような大きな風のうねりが感じられます。しかも、作者はそれをあっさりと吐息つまりため息といっているのです。酷暑の夏が熱帯性低気圧の大きなため息によって一瞬にして爽やかな秋となる、サーモグラフィーに映された赤い海が青い海にかわる、そんな瞬間を捉えています。
枝豆に乗せられてゐる口車 平山みどり
何ともおかしみのある句です。えっ、乗るのは口車じゃないの?枝豆に乗るの?
そんなことはどうだっていいじゃありませんか。枝豆を出されて、すすめられて、むしゃむしゃ食べているうちに何だか相手の思うツボにはまってしまったような、そうでもないような…年の功と俳味の何たるかを体得している作者ならではの洒脱です。
言葉尻眉でとらへて残者かな 押山雅子
これは前句と対になっているような、まるで、連句をしているような句です。前句の作者とは同世代でしょうか。相手の無神経な言葉づかいを口に出して注意してやろうか、いやいや、ここのところはじっと我慢しておこう、それにしても暑いわねぇ。「眉でとらへて」という表現が絶妙です。
二人抜け一人残され盆踊 梶原由紀
作者は若い女性です。近頃は、都内のここかしこで盆踊りが盛んに催されています。もともとはご先祖様の御魂をお迎えする踊りですが、近頃では近隣の親睦をはかったり、町おこしの一環に行われたりしています。若い男女の浴衣姿もなかなかいいものです。作者も何人かの友達と連れだって踊りの輪に加わったのです。でも、気がついて見ると、さっきまで一緒に踊っていたあの二人がどこかへ行ってしまい見当たりません。スピーカーから流れる音楽や太鼓の音、提灯の灯や夜店の賑わい、そんな中で作者はひときわ「雑踏の中の孤独」を味わうことになってしまったのです。まるで、テネシーワルツのように胸がきゅっとしてしまう句となりました。
父の忌や日の矢の射たる秋の海 山田泰造
作者は静岡県の海辺の町にお住いです。眼前には太平洋の大海原が広がっています。
お父上の命日、晴れた空には白い雲が浮かび、群青の海は穏やかに遥か水平線まで澄み渡っています。時折、雲が太陽を隠し、雲の切れ間から海に向かって日矢が差し込みます。その鋭く力強いこと、在りし日のお父上のイメージとも重なるのでしょう。定年退職後の名誉職も辞され、悠々自適の日々を過ごし始められた作者のおおどかな心の有り様まで感じられる句です。
厄介な夏の草にも花咲いて 佐山勲
「小鳥とともに」の勲さんの句です。夏の季語となる花は数々あります。向日葵しかり百合しかり。でもこの夏の草は、むしってもむしっても生えてくるイネ科の雑草のような、あるいは、生け垣にしっかりと絡みつく蔓草のような厄介なしろものなのです。このような草を駆除するのは一仕事です。酷暑のなかではなおさらで、いらいらがつのります。憎しみを込めて引き抜こうとした刹那、この草の目立たない色の花が作者の目に入ったのです。そして、思わず引こうとした手を止めてその花をながめてしまった。作者のやさしさが滲み出ています。
子規の忌の扇いで冷ますぼんのくぼ 河合すえこ
正岡子規は明治三十五年九月十九日根岸で病没。三十六歳。その忌日は、絶筆の三句から「糸瓜忌」、また、自らを獺祭書屋主人と称したことから「獺祭忌」ともいわれます。
老いて尚君を宗とす子規忌かな 虚子
燭を継ぐ孫弟子もある子規忌かな 〃〃
天下の句見まもりおはす子規忌かな 碧梧桐
糸瓜忌や俳諧帰するところあり 鬼城
遅々としてわが俳諧や獺祭忌 誓子
近代俳句の祖子規の忌日ですから、そうそうたるメンバーのそうそうたる句が並びます。
同病の集りてわらへる子規忌かな 波郷
新甘藷を供ふもつとも子規忌らし 暮石
草の丈のびて人越す子規忌かな 魚目
枝豆がしんから青い獺祭忌 みどり女
獺祭忌紙切る鋏街に買ふ 欣一
これらの句は、前掲の句が第一世代としたら第二世代の句ともいえるでしょう。第一世代の句のように真っ向から子規忌を詠んでいるわけではありません。
では、掲句はどうでしょう。九月の残暑の中、汗だくだくの首筋を団扇で扇いでいるのです。そして、あら、そういえば今日は子規忌だったかしら、と気がついたのです。眼目はあくまでもぼんのくぼなのです。汗とぼんのくぼを詠んだ句はあります。
汗のなきぼんのくぼより拭きはじむ 木村三男
子規の坊主頭の汗もぼんのくぼを伝わって首筋に流れていたのでしょうか。「扇いで冷ます」とありますから、確か、鍼灸のツボでもあるぼんのくぼを冷ますのは、暑気負けの手当のひとつなのかもしれません。近代俳句の祖子規を添え物としたところが小気味よいではありませんか。
老いてなほ稚気の顔出す秋日和 渡辺 清
作者は絵を描くのがご趣味と伺っています。いな、趣味の粋を脱していらっしゃいます。絵を描くために各地にお出かけになることもあるそうです。都会的でスマートな紳士で、初めてお会いした時、帰りしなにさりげなくコートを着せかけて下さいました。やさしく悠然とした佇まいのなかに、時折、お茶目なな笑顔をお見せになります。ご自分のことではなくお仲間を詠んだ句かもしれませんが、歳を重ねるなら斯くありたいという幸せの意味を実感させられる句です。
消しゴムの丸くなりゆく夜長かな 遠藤真太郎
作者はとてもユーモアのセンスに長けていらっしゃいます。消しゴムが丸くなるほど何をなさっているのでしょうか。勿論、俳句を作っているのです。書いては消し書いては消し、消しゴムの角が取れるほど推敲を重ねているのです。
秋の夜長とはいえ、時を忘れて句作りをして、ふと、窓の外に眼をやると、机の上のカスにまみれて転がっている消しゴムのようなまん丸いお月様が辺りを明るく照らしているのです。
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