今月の秀句 細見逍子
進み来る佞武多太鼓の横一列 飯島千枝子
掲載するのがちょっと時期遅れになってしまったかもしれませんがお許しください。東北三大祭りの一つ、青森のねぶた祭りの一コマです。作者は何人かの俳句仲間と東北の祭を巡ったのでしょう。余分なことは何も語らず、ただ太鼓の列が近づいて来ることだけ詠みきって、それでいて読者に勇壮な祭りのダイナミズムを感じさせてくれます。篠笛に合わせた「ドンドドンドコドン」という太鼓の音、「ラッセ、ラッセ」という掛け声、男たちの太い腕、町中に発ち込める熱気、そして、それらの中に身を置いて頬を紅潮させている作者の表情までも読み取れる臨場感溢れる一句となりました。「佞武多」という表記も効を奏しています。俳句は声で出すだけではない、目で感じる文芸でもあることを実感させられます。作者は、常は、趣味である山登りの句、家族を詠んだ境涯句を多く作られていますが、スリムな外見からは想像できないこんな骨太な句もテリトリーに加わると、向かうところ敵なしとなられることでしょう。
根の国にちちはは枝にけらつつき 篠原悠子
本誌でも「文語文法」や「大山雅由の世界・鑑賞『快楽』以後」を執筆され、古典文学ことに和歌の世界に精通されている女史の句には、古典の知識、和歌の素養に裏付けされ、勿論、そのままでも十分鑑賞できる名句がたくさんありますが、それらを踏まえているとさらに深い理解ができるという作品が多くあります。それに対して、掲句は、おそらく瞬間的に、いかにも俳句的にできた句ではないかと思われます。亡くなられた御両親に思いを寄せているそのとき、「根の国にちちはは」という心地よいリズムが浮かんだのではないでしょうか。そして、実際に目の前に啄木鳥がいたか否かは判りませんが、瞬間的にこの決定的な季語「けらつつき」に出会えたのではないかと想像されます。しかし、これはあくまで筆者の想像であって、実際には、「けらつつき」を眼前に捉えていたのかも知れません。「ちち」「はは」そしてけらつつきの「つつ」という二音の連続音。根の国の「ね」という一音。朝鮮半島を渡って文字が伝わる前の、文字を知らなかったわれわれの祖先がつかっていたであろう素朴な一音、二音の言葉を用いて、作者の特長でもある流麗な俳句とは一味違った、一度聞けば決して忘れない名句が誕生したのです。
道端に忘れおかれし吾亦紅 鴫谷良雄
吾亦紅の語源は諸説あるようですが、そのひとつに、神様が赤い花を集めていた時、この花のことを忘れていたので、花が自ら「吾も亦紅なり」と訴えたという話があります。しかし、「吾亦紅」はもともと「吾亦香」と書かれていたらしく、その信憑性が薄らぎます。他にも、花の様子が家紋の「木瓜文」が割れた形に似ているので「割木瓜」、根の香りが「木瓜(インドの香料)」に似ているので、吾が国の木瓜「吾木瓜」という説もありますが定かではありません。ただ、「ワレモコウ」という音から「吾も乞ふ」とか「吾も恋ふ」という言葉を連想してしまうのは筆者だけでしょうか。どちらにしろ、決して万人が美しいとは思わないであろう臙脂色の花の「私を見捨てないで」という切実な想いが感じられます。そんな「吾亦紅」が道端に置き忘れられているのです。もしかしたら捨てられているのかもしれません。山を愛し、つい先だってはヒマラヤに、今度はイタリアアルプスの何とやらいう山の登山を計画なさっている作者のやさしさが「忘れおかれし」となったのです。捨てるぐらいなら、いな、置き忘れるぐらいなら採って来なければいいではないか、そんな作者の想いが感じられます。江戸中期の俳人・漂水の「手に取るなやはり野に置け蓮華草」の心持でしょう。登山とカメラを愛す作者の漂々とした生き方が垣間見られる一句となりました。
海と空溶けて色無く冬はじめ 永島正勝
川の面を躍らせ越の時雨ぐせ 須賀智子
前句は能登の、後句は新潟の、どちらも日本海沿いの初冬の風景を詠んでいます。永島氏は永く航海を続けていらして、海の句、船の句を沢山詠んでいらっしゃいますので、この句も船上から見た日本海かもしれません。須賀さんの句は新潟特有の初冬の雨の様を詠んでいます。時雨というと音もなくしとしと降る雨という固定観念がありますが、越の時雨は川面を躍らせるほど「くせ」の悪い雨ということなのでしょうか。筆者の姉は関東育ちで、鳥取県米子市に嫁いでいますが、四十年以上も経た今でも、十一月頃に海と空の色が鈍色に変ると涙がでてくるといっています。「鰤起し」などという言葉もある日本海沿岸の、これから来る厳しい冬への「諦観」にも似た思いが「色無く」に、でもそんなものをも跳ね返す逞しさが「時雨ぐせ」ということばに感じられます。
聞かぬふりして聴いており竃猫 中村 格
これはまた、どのような状況をお詠みになったのでしょうか。お話は奥様の独り言でしょうか、それとも、誰かとの会話でしょうか。竃ならぬ炬燵か暖炉で温もる振りをしながら、耳だけはそばだててちゃんと事の成り行きは把握していますぞ、といったところでしょうか。この竃猫、季語ですから、勿論、日本猫でしょうが、筆者にはどうしても、「耳から耳まで届くようなにやにや笑いを浮かべる」というルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に登場するチシャ猫のような気がしてなりません。
黒猫のよぎり山茶花散りにけり 榎 和歌
三毛猫の初の御目文字暮の秋 田辺キミ
また、猫です。前主宰雅由が生前、「猫と孫の句は詠むな」といっていたことを覚えている方は多いと思いますが、一向に猫の句は減りません。それだけ、皆さんの生活に猫は不可欠な存在なのでしょう。犬の句というのは滅多にお目にかかりません。
前句、山茶花の薄紅、葉の緑、黒い猫が目に浮かびます。やはり、ここは黒猫でなければならない、そんな気にさせられます。そして、山茶花は大ぶりな一重咲き。まるで、日本画を観ているような心持になる一句です。後句、三毛猫です。「御目文字」は女房言葉で「お目にかかること」。女房言葉は室町時代に宮中に仕える女官たちが使ったことばで、「御・・・」「・・・文字」の形をとるものが多く、「おかか」「おかず」「おこわ(強飯)」「おさつ(薩摩芋)」「おみおつけ(御御御汁)」「かもじ」「しゃもじ」「ひもじい」などは現在でも遣われます。「御目文字」はあまり耳にしませんが、この句では、いかにも三毛猫様のお出ましにふさわしい、おかし味のある遣い方がされています。
残菊を避けて掛けたる梯子かな 山口文美
作者のお宅には職人さんが入って何やら作業をしているようです。屋根に上るのでしょうか梯子をかけるのに、足元のまだ咲き残っている菊を避けて、梯子の位置を変えたのです。荒々しい声で弟子たちを怒鳴っている棟梁の細かな心遣いとこういう人に仕事を頼んでよかったという作者の安心感が伝わります。こういう心遣いは日本人特有のものなのでしょうか。次の句にもそんな思いが伝わります。
救急車見送る冬の菊よけて 長尾明子
あんこうのぐたりと箱におさめられ 石附法子
鮟鱇はよく詠まれる句材のひとつですが、ほとんどが「吊し切り」という独特の調理法を詠んでいます。
出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり 阿波野青畝
吊鮟鱇ゼス・クリストの貌をして 水原 春郎
掲句は箱に入れられた鮟鱇を詠んでいます。「箱」だけを漢字にして他は全てひらがな。鮟鱇の箱に納まらない感じが字面からも感じられます。
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