・大阪らんちゅうについて

今日、らんちゅうといえば誰もが関東らんちゅう(獅子頭らんちゅう)のことを思い浮かべると思うが、かつては関東育ちの現在のらんちゅうに対して、関西育ちの大阪らんちゅうという品種が存在した。その歴史は古く、関東らんちゅうの品評会が開かれた明治4年より前の文久2年(1862年)に大阪で品評会が開かれている。

昭和の初期までは、関東らんちゅうと並んで盛んに飼育されていたが、徐々に関東らんちゅうの人気に押され、ついには滅びてしまったと言われている。しかし、大阪らんちゅうが滅びてしまったもう一つの大きな理由として、らんちゅう系では最も尾巾の広い丸尾(尾の切れ込みの少ない丸形の尾)で平付けの尾(体軸に水平に付いた尾)、さらに、たとえ形が良くても模様の無い素赤、若しくは白は駄物として扱われる等、極めて厳しい選別基準を設けていた為に、その基準を満たす魚がほとんど残らなかった事が挙げられる。

大和郡山市で最後まで大阪らんちゅうを守ってきた西川養魚場の故西川繁太郎氏は、たった一日の出来事でこの品種を絶やしてしまった悔しさを次のように述べられている。

「(昭和22年)3月15日だったと思います。いつものように早朝、見回りをしたときは気が付きませんでした。二度目に見回りに行ったときに、オオサカランチュウの池の二十数匹が底に沈み様子が変である事に気付き、慌てて取り上げた時はもう手遅れでした。息も絶え絶えの2,3尾を覗いては既に死んでしまっていました。」

「生き残りのものも、ついに回復することなく後を追い、結局、一挙に全てを失ってしまったのです。原因は窒息死であります。水がたしかに濁りすぎでした。その上、前日の給餌が多すぎたこともありましたし、いつもの差し水をその日に限ってしなかったこともいけなかった。いや、とにかく早朝一番の見回りの時発見出来ていたら、このように全滅ということにはならなかったろうに。あれやこれやの考えも、起きてしまった今は取り返しのつく手だてとなるものでもなく、早速、大阪と和歌山の心当たりに問い合わせましたが、やはりこの品種は残っておらず、ついに絶滅しました。今なおその時のことは残念でならず、忘れることができません。」

一度絶滅してしまった品種を一から創り直す苦労がどれほどのものであったかは、私には想像もつかないが、西川氏は大阪らんちゅうの再現を諦めず、ご子息の吉則氏、孫の吉郎氏並びに幾人もの篤志家の半世紀に渡る努力により、今日ようやく原型に近い特徴を備えた魚が見られるようになった。

未完成ながら、私も以前この品種を飼育していたことがあるのだが、上見では平たい体型の白勝ち更紗、短い目先に小さな赤い花房を付けたその姿は本当に愛らしく、他のどの品種とも違った独特の魅力を持つ魚であった。多くの篤志家の努力によって復元されつつある本種が、今度こそ絶滅することなく末永く愛好される品種となることを切に願いたいものである。

観賞魚フェアに出品されていた大阪らんちゅう。まだ完全とはいかないまでも、大阪らんちゅうとしての特徴を随所に備えた魚達である。

有名な故松井博士の著書「カラーブックス 金魚」で紹介されている大阪らんちゅう。こちらも復元途上の魚であるが、最近の魚とはかなり雰囲気が異なる。
・大阪らんちゅう今昔

同じく故松井博士の著書「金魚大鑑」で紹介されている、西川氏所有の大阪らんちゅう。