個人的考察である。馬鹿にして下さい。馬鹿だから気付きません。人に否定されても構いません。何と言われようとへこまないことにしました。何の得にもならないことに今ごろ気付いたので。だからと言って、他人に迷惑をかけることはしません。


 僕は、世間の目を気にしながら生活をしていくことと、日々のくだらない時間に囚われていること対して嫌悪を抱いている。現代社会を、何者かによって取り繕われた事象に右往左往しながら存在している意義はあるのだろうか。どんな人間でも、老いて死んで行くのである。そこを考えれば、現在の時間などは全く持って、濃いお茶にコーヒーを注ぐくらい意味の無いことである。美味しいことで有名な蕎麦屋に入って、あえてカツ丼を食べることぐらい意味不明である。


 現実社会に生きている人間は、死んだ後の世界である「極楽、阿弥陀仏の浄土に名づけるもので、「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。経典阿弥陀経には「衆苦あることなく、ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」というが、梵蔵文では、衆苦を身心の諸々の苦といい、諸楽を楽の材料というから、極楽とは身心が共に苦を離れていて、幸福の材料だけがあるところの意味。」」や「地獄、元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられたもの。そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。その後浄土思想の隆盛とともに地獄思想は広まり、民間信仰として定着する。」」の存在すら信じることも無く、宗教観も蟻の脳味噌ほども持ち合わせていないだろう。詰まるところ、生きている時に如何にして、誰かに植え付けられたであろうくだらない杓子定規の中で、自分の幸せを計り、そして他人と優劣を決めることで幸せを得ている。簡単に言ってしまえば欲の塊である。その欲を、達成できることのみを糧として生きているのだ。


 欲とは、動物・ヒトが、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。欲望、欲求等と言ったほうがより現代的であろう。生理的なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれるが、生理的なレベルのものは、生物が生命を維持し子孫を残すために必要な欲求である。外界からの刺激や体内の状態に直接結びついた、短期的な欲求である。これには、呼吸、節食、食水、排便排尿、睡眠、生殖欲求などが含まれる。また、より高度な欲求としてヒトは他の動物と比較して、社会的に認められたい、知識を満足させたい、他者を満足させたいという、より高次な欲求がある。高次の欲求は、生理的な欲求に比べて概ね長期的に満足されることが多い。また、欲求の内容は、後天的に身につくものであり、社会や文化の影響が大きい。知識・名誉・地位等を得ることによる満足感や他者から認知されたいといった欲求、ストレス発散行為を欲する動き、より美味しいもの・より良いものを求める動き、見栄・所有欲等がある。僕は、呼吸、節食、食水、排便排尿、睡眠以外のものに興味があまり無くなって来ている。パソコンにあるF8ボタンぐらい興味が無くなって来ている。さらに言えば、韓流ブームに乗っかって、格好を真似している人ぐらい興味が無い。


 他人から見れば、僕はすべてがある程度満たされているから、言えるものだと言うかも知れない。しかし、それは世間の目(世間に決められてしまっている尺度)でしか人を判断することがされることが無いのであるから、言ってしまえばそんなものは、無に等しい。定食についてくるクレソンくらい無に等しい。


 イソップ物語にある「すっぱい葡萄」の話がある。簡単に説明すれば、ある木の葡萄は高いところになっていました。きつねはしばらくその木を見ていたが、「あの葡萄は酸っぱいんだ」きつねは葡萄を諦めました。と言う件である。この話を読んで、普通の方ならこれを後悔したと取る方が殆どではないだろうか。僕から言わせて貰えば、そんなものではない。この完璧なる「あきらめ」が重要なのだ。取れなかったことに執着してしまうことによって、膨らんだ欲求から吐き出される後悔など、一円しか持たないで焼肉屋に入るのと同じくらい馬鹿なことである。最初から、いらないものだと思ってあきらめていれば、何の問題も無いのである。焼肉屋に入らずとも、家にある冷凍食品を食べてさえ居れば問題ないのである。究極のあきらめは、さらに何も食べなければよい。腹が減っていないと思い込めば、減っていないのだ。
無理をして、努力をして手に入れようとする知識・名誉・地位・見栄・所有欲などはいらないのだ。手に入れた所で何を得られるのか、一時的な満足感、他人から羨ましがられることで幸福を感じて、はたしてそれが本当の幸せなのか。僕は、初めからあきらめていれば、必要の無いものとして簡単に通り過ぎることができるのではないかと思っている。


 僕は、いつ何時死んだとしても、後悔することは無い。悲しむ人間、喜ぶ人間、何も感じない人間、様々いるであろう。だからどうしたと言うのであろう。死んだらどうすることも出来ないのだ。残された人間は何ができるのか、何も出来やしないのだ。指を咥えて見ていればいい。結局人間なぞ、老いて、死に行くものなのだから。死に対しての恐れ、不快、後悔などが起こるかもしれないが、そんなものも必要ない。持った所で、得することは一つも無いのだ。埼玉競馬場で、外れた馬券を一生懸命拾うのに等しいくらい得することは無い。更に言えば、明日倒産することが決まっている会社の株を全部買い占めるに等しいくらい得することは一つも無い。
自分のことだけで、脳内許容量が満タンの人間がいくら、その小さな脳味噌の中に素晴らしいといわれる情報などを入れた所で、使うことも出来なければ覚えてさえもいない。他人のことまで考えて生きている人間が、どれほどいるであろうか。嫌、いるであろうがそんなことはどうでもいいことだと思う。おいそれと、自分勝手に他人の世話を焼いていればいい。それが本当に、人のためになっているとも考えずに。焼肉屋に行って、人の分まで焼いてくれくらいお節介を焼いていればいい。更に言えば、飲み屋に行ってホッケを全部一口大の大きさに分けて、大根おろしを万遍なく置いておくくらいのお節介を焼いていればいい。
 

 例えばどうだろう、電車の中で自分が座っていて、少し離れた所に荷物を持った老人がいるとする。そこで、偽善に満ちた人であれば、当然席を譲るであろう。しかし、その老人は、次の駅で降りる準備をしていたらどうする?その横にいた健康そうな少年が実は不治の病かもしれない。極論だと言われるかもしれないが、そういうことなのだ。押し付けることはしてはいけないということなのだ。押し付けることは、どこかで人を不幸にしているかもしれないと、念頭に置くことが必要なのだ。つまり、僕が考えるのは「自分がして欲しいことは他人にしない」、「自分にして欲しくないことは他人にしない」と言う、完全受身の考え方なのである。
 

 人間は、間違いなく自分が一番大事な訳である。それは、間違いない事実だと僕は考える。釈迦の話の中にこのような件がある。
ある国の王様とお后がいて、とても釈迦に帰依をしていた。そして、とても仲が良かった。ある時このような会話がなされた。外を眺めながら、王は
「后よ、自分よりも愛しいものはあるか?」
普通なら、そう聞かれたら「王様あなたが一番大事ですよ」と答えるであろう。そう答えることによって王は、空満足を得ることはできるでしょう。しかし、この時后は、
「自分自身よりも愛しいものはありませんと言った」最強です。
こんなことを言われて、嬉しい人はいないでしょう。些か、怒った様子です。当たり前と言ってしまえば当たり前。そして后は、王様に同じことを尋ねるのです。王様も同じことを問われた時に気付いたんですよ。
「そう言われれば、自分よりも愛しい存在はない」と、正解です。
しかし、仲の良かった夫婦は果たしてこれで良いのかが解らなくなったので、釈迦に聴きに行くことにしたのです。そして、釈迦から得られた答えはこう。
「それでいいのだよ」
「いかなる生物も自分自身よりも愛しい存在のものはない。だからこそ、他人を傷つけることはしてはいけないのだ」と。

 自分を愛すると言うことは、エゴイズム以外のなんでもない訳だが、そこからすべてが始まっていることに気付いていない方が多いのだ。まず、人の事を気にしている人間などは、到底信用できないと言うことである。まず、自分自身が大切であって、そこから発生する受身の態勢が出来たことによって、他人を受け入れられ、そして、自分がして欲しくないことが解るのだ。自分自身が嫌いだと言っている輩が、「良い人はいないか」などとパートナーを探す時点で、人生終わっている。夜中の1時にマクドナルドのモーニングセットを頼む位終わっている。更に言えば、賞味期限が10年前に切れている鯖の缶詰を開けたときの匂いくらい終わっている。


 自分の幸せと言う下らない欲求を得るために、そんなに健康でもない体に無理をしてでもいい所に住みたい、いい物を食べたい、いい職に就きたい、偉くなりたい等と思われるだろう。果たして、それは本当に幸せなのだろうか。そんなものは、他人と見比べ、優越感に浸ると言うことのみでしかないのでは?そこでしか、自分の幸福を確立できないとすれば、完全に履き違えている。そして、好きなことをして生きているから、良いんだと言う。果たして、それは本当にしたいことなのだろうか。そう言い聞かせることで自分を保護して他人からの言い訳にしているだけではないのか。そんなことを言うのであれば、僕は逆に、嫌いだけどしょうがないからする。自ら命を絶つことは出来ないから、仕事をしてると言い切ってしまえば、楽になる。無駄な説明をしなくても済む。後に、自分の首を締めずに済む。そんな素晴らしいことは無いと思う。突然空から万札が自分の所にだけ振ってくるくらい素晴らしいことである。更に言えば、庭をちょっといじったら油田が出てくるくらい素晴らしいことである。
 

 言ってしまえば、競争しなければいいのである。戦うことを諦めればいいのである。すべて、負けることが無い。そして、戦いを挑んでくる相手もいなくなる。なんとも幸福なことであろう。しかし、現代社会においては、競争社会が義務付けられている。なんとも哀しいことである。昭和天皇が崩御なされた時くらい哀しいことである。更に言えば、買い物で端数の小銭をどう払えばいいか計算が出来ないくらい哀しいことである。

 自分が幸せになるということは、どこかで誰かが不幸になっていると言うことなのだ。自分の立場を守ろうとすると、それは他人が不幸であり続けてもいいと思っていることと同じ意味である。「しょうがない。この民主主義の世界に生まれてしまったから」と言うのは、下らない言い訳にしか過ぎない。性犯罪者が、そのシュチュエーションでないと、性的欲求が起こらない言う事と何ら変わりは無い。満員電車で、匂いたくも無い無いおっさんの頭の匂いが仄かに香ってくることくらい嫌悪を感じる。

 人生に何が大切なものかをアンケートしたものがある。1992年にフランクリン・コヴィー社がアメリカで行ったものである。参考にしていただきたい。
1 夫または妻
2 経済的な安定
3 健康と体力増進
4 子供と家族
5 神/宗教
6 達成感
7 正直/誠実
8 仕事上の満足感
9 人々への愛/奉仕
10 教育
 恐ろしいです。こんな結果になっているとは。僕から言わせて貰えば、人々への愛ってなんですか?なんですけど。まあ、これは10年以上も前のアンケートなのでもう一つ日本のネットでこっそり行われたアンケートの結果は、以下の通り。
1 金
2 愛
3 自由と時間                                                                                   4 2ch          
 

 まずは、アメリカで行われたアンケートについてだが、結婚をして健康で、優雅な生活を送りたいと言うことですね。頑張って下さい。それしか,かける言葉が見つかりません。求愛するに当たって、誰かを傷つけて結婚をし、誰かを蹴落とすことによって得た富で安定した生活を送り、誰かに風邪を移すことによって健康と体力増進をし、その罪を宗教に頼って許してもらってください。そんな都合の良い事など無い。小さな定規の中で他人と背比べをして、優越感に浸ることがそんなにも豊かで大切なものなんですかね。僕には理解でき無い問題です。幼稚園児が、∫ ?a a f  ( x )dx=2 ∫ 0 a f  ( x ) dx ( f  ( x ) :遇関数 )の意味を解るくらい難しい問題です。
 で、日本のネットのアンケートについてだが、これはあまり信憑性は無いかもしれないが、結局同じような答えが出ている。金を持ち合わせ、愛する人がいて、その人と遊んで暮らしたいと言う願望。勝手にしてください。つまらないことで、一喜一憂しながら後悔と懺悔の念を抱きながら幸せになってください。下らない願望である。さながら、よく漫画で出てくる不老不死の薬を飲んで一生遊んで暮らしたいと言う願望くらい下らない。更に言うなら、僕が、今から世界制服をして世界を破滅させたいと言う願望くらい下らない。


 僕は、理解はしているつもりである。結局このような、どうしようもない事を机上の空論でいくら述べた所で、意味がないということを。そして、全く気にしないで生きていると言えば虚である。僕としても、人には良いように思われたいし、人から好かれたいし、お金もあればあったで問題ない。僕が思う事として一番の重要な事は、あきらめのである。あきらめがつかなければ、後々苦労するのは自分なのである。それは、嫌なのであきらめるのです。どうでもいいと思う事にするのである。世の中の事象がすべて虚無に感じて行きたいのである。これを実践する事ができれば、負けることの無い素晴らしい人生が待ち受けている事は間違いないのである。

 どれだけ、勉学を励んで諸学に精通し様とも、どれだけ地位や名声を得て、人から尊敬され羨ましがられようとも、どれほどの巨万の富を得ようとも、何もならないとあきらめていきたい。僕は、つまらない人生の時間に対してあきらめを感じていたいのである。正義感に苛まれ、主義主張を言い放つ人間達に対して、すべてを受け入れられるようになればいいのである。

 僕が思う事は、すべてを受け入れたときにどうでもよくなると言う事なのである。本当に興味がなくなるのだ。金があれば使い切ってしまい、その後苦労すればいい。自分にしかその苦労は背負う事は無いのだから。金があれば、欲するものを買ってしまえばいい。買えなきゃ買わなければいい。無理して買った所で何がある。只、それだけなのだ。
 

 人間は、綺麗か汚いかどちらとも選択する事の不可能な、薄っぺらい只の皮を被っているだけの水みたいなものだ。流されているだけなのだ。抵抗しようとも、少し方向を変え、河口へ向かっていくだけの川水のようなものだ。その、皮を剥離してしまえば、「老、病、死」と言うものしか残っていないのだから。人間の中身が好きだと言う方は、相当なマゾヒストなのであろう。老いる事と病む事と死んでいくのを眺めていて楽しい事があろうか。

 すべてを受け入れたときに、何か違うものが見えてくることにしておいて明日なくなるかもしれない人生を謳歌したい。