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■ 文科省は必要か 柳平 彬 (2007.2)
 小島慶三先生は、常々、文明の衰亡の原因は@「自然環境の破壊」、A「社会システムの機能不全」B「モラルと内的意欲の喪失」と指摘されてきました。そのBのテーマについては山本克郎会長は、明治時代に起きた教育の翻訳ミスに触れたテーマから議論をスタートしてはという提言をされています。そのことに触れた記事をこれから紹介します。


 「文科省は必要か―急がば回れの“教育”改革―」は2003年7月7日に元文部科学大臣遠山敦子さんが国策研究会で講演された内容について意見を求められて書いたものです。これを一つのたたき台にして、小島志ネットワークでの3つのテーマの第3番目「モラルと内的意欲の喪失」と「人づくりの失敗」をテーマにしてまいりたく、ここに載せることにいたしました。
 特に“教育”の翻訳ミスの問題が教育基本法について論議する時でも全くといって良いほど問題点としてのぼって来ておりません。
 昨年、国学院大学栃木短期大学小川澄江教授の書かれた「中村正直の教育思想」に触れる機会を得、日本の人づくりの基本方針の狂い、ボタンの掛け違いがどこにあったかがより明確に
なりました。
 山県有朋、伊藤博文のブレーンである井上毅が「文部の立案」(中村正直案「教育上の箴言」案)を認めることが出来なかったその理由の中にも日本の人づくり戦略の判断ミスがあったと思うようにもなりました。
 21世紀の日本の人財育成は、急がば回れの近道で、名と実(たとえば教育と啓育の名と実の正名論)をまず一致させ、そこから100年の日本の国家の人づくりの計を始めるべきと思います。
 以下、「文科省は必要か」の全文です。


文科省は必要か―急がば回れの“教育”改革―
 人づくりに関して本気で国家百年の計を考えているのであれば、急がば回れの近道で、名と実をまず一致させ、思考を正し、人々の持っている潜在力を引き出す啓育に取り組んでいただきたい。
 このたび、「教育改革・画一と受身から自立と創造へ」という題で講演(7月7日)された文部科学大臣遠山敦子さんの内容に対する意見を事務局から求められました。今回の「教育の構造改革」をまとめられ実施されるに当って並々ならぬ努力をされた関係者を代表された大臣の講演内容、また使われた資料、「教育の構造改革」と「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を再三読ませていただきました。
 1997年10月に新国策で「教育改革への基本的提言」と題して2回程私見を述べたこと、企業人の人財育成に長年携わってきた責任もあり、また日本のこれからの人づくりに少しでもお役に立てればという思いから、勇気を持って率直に意見を述べることにしました。失礼なことを申し上げることになりましたら他意はありませんのでお許しください。
 まず、「画一と受身から自立と創造へ」というタイトルが私の頭を最初から混乱させてしまいました。これを理念と言っていますが、本来理念とは道理に対する想いであり理性的な最高概念で、俗に表現すれば、事業計画などでは根底にある基本的な考え方なのです。単なるキャッチフレーズではないのです。受身の対概念は能動または積極です。また画一の対概念は多角です。自立の対概念は依存、創造の対概念は模倣です。受身から積極へ、依存から自立へ、模倣から創造へというのであればついていけるのですが、いきなり異なる概念に飛躍してしまうと、頭が混乱します。
 通常はこうした対概念を無視した文章は論理跛行といって、言語能力、すなわち文字やことばで論理的に表現できる能力を疑われてしまうのです。論理跛行とは、概念や言語が明確に定義されず、または規定なしに連想的に文章が跛行していく展開のことをいいます。最近は企業研修の目的や方針づくりにもこうした文章が目立ち、私どもは現場での対応に苦慮しております。そういう私も概念や論脈の不明確な文章を書いて、部下から注意されることがあります。他人のことは批判できても自分のことは意外にわからないものです。


不明瞭な概念は魂を奪う
 さて、「教育の構造改革」のはじめに次のような文章があります。「それ(教育の構造改革)を貫く理念は『画一と受身から自立と創造へ』の転換にあります。その理念をよりわかりやすくまとめれば、(1)『個性』と『能力』の尊重、(2)『社会性』と『国際性』の涵養、(3)『多様性』と『選択』の重視、(4)『公開』と『評価』の推進ということになると思います。」これらを「教育の構造改革」を進めるための4つの理念と称していますが、各理念といわれる「個性」と「能力」の関係、「社会性」と「国際性」の関係、「多様性」と「選択」の関係、「公開」と「評価」の関係が必ずしも明確になっておらず、項目別・教育段階別に対策が打ち出されています。更に4つの理念の関係についても論脈・コンテキストがわかりにくく理解に苦しみました。これらの概念と論脈が不明確ですと、いくら具体的で個別的な対策を打ち出しても戦略的優先順位が決まらず、行き当りばったりの施策になってしまいます。このような不明瞭な概念は、それ自体の中に原因が表現されておらず、他の概念との連結に到達するどころか、ただ偶然的な出合いの秩序に従っているだけで明確な前提(本位)を欠いてしまうのです。
 同様に「『知の時代』といわれる現代」、「新しい時代を切りひらく心豊かでたくましい日本人」、「『知』の世紀をリードする創造性に富んだ人間の育成」と言われますが、「知」の概念が不明確のまま何となく快く響くことばではありますが、これらの文章に明確な前提が表現されているとも思えませんでした。現実は学ぶ側も教える側も対他競争を中心とした受験システムの呪縛から結局は解放されず、教育改革は“学力”や学校教育システムに限定された狭い範囲内での対症療法的改革で終わっているのです。そして、人の能力は千差万別なのに、出来る人間と出来ない人間、受験においての勝組と負組といった単純な評価基準で人を評価する内に、優越感と劣等感によって子どもや青少年は内在するポテンシャル・潜在能力を疲弊させ、最終的には企業や社会や国家全体のポテンシャルすらも喪失させかねないのです。
 また、もしこれから創造性を開発するというのであれば、問題解決能力よりも問題発見能力、目標達成能力(合目的律)よりも目標創造能力(創目的律)、対他競争よりも対自競争、外的意欲よりも内的意欲に軸足を移して行かなければならないのです。しかし、そうした方針も見うけられませんでした。一方、人間の能力の二極化は、学校だけでなく企業の中にも現れつつあります。間違った解釈による個の確立は、人間性をゆがめるミーイズムを助長させ、優越感を持ったグループも劣等感を持ったグループも、それぞれの特徴の中で心のゆがみが増幅され、自己の存在根拠を喪失させて、“思いもつかない”といわれる犯罪や事故を起こす可能性を高めているのです。
 企業では、個々に手を打ったつもりが合成の誤謬を起こし、相も変わらず“具体的”といわれるキレイごとの表面的な対処で現実の問題が本質的に解決されているとは思えない場面に出合うことがあります。そうしている内に、人間は内発的意欲を失い外的刺激でしかやる気を起こさなくなり、魂を抜かれポア状態に置かれてしまうのです。その結果、組織の総合力も失われてゆくのです。


日本人はポリグロット
 魂を抜かれた人間は、その結果、目的と手段を混同したり入れ換えたりします。そうした例とは思いたくありませんが、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を読んで驚いたことがありました。英語教育の指導力向上及び指導体制の充実の目標に、TOEFL 550点、TOEIC 730点程度以上と書いてあるのです。手段が目的化する第二の偏差値教育のようなものになりかねないのです。
 日本語を母国語に持っているわれわれは「多言語湧出可能概念」(『元気を取り戻すには言気が必要』宅間宅著、新国策1999年9月号)を持った民族(ポリグロット)であり、世界では4000年頃前のアッカード人しかいないのです。ポリグロットは外国語(日本人の場合は漢字、アッカード人の場合はシュメール文字)を借りて自国の表語文字(音と意味とが結合したことばをそのまま文字にしたもの)を作った民族です。自国語で効果的に高等教育ができる日本人は、他国と比較して外国語の点数が一般的に低くなるのは当然の結果なのです。アジアのいくつかの国と比べて、TOEFLの点数が低いからといってあわてて目標550点などと定める必要はないのです。目標は別の所に置くべきなのです。
 たとえば、これからは、われわれは日本語のポリグロットの強みを生かすことが国際社会に貢献することにもなり、私の体験では外国人もそのことを期待しているのです。日本人はむしろ出来るだけ多くの民族のことばの概念を正確に理解し、誤解の起きないようにコミュニケーション能力を高めることが、そのことばの言魂を吸収出来て言気(元気)になれるのです。TOEFL やTOEICの点数などのレベルを決めることは、各学校やその指導をしている所に任せておけば良いので、国家の文科省がやることはより大局的な所にあるのです。
 こうなると、表題にある“英語が使える”とか“使えない”という次元の問題ではないのです。どうして文科省の中でこうした手段が目的化するハウツー的発想が生れるのか考えてみました。そして、間接的ではありますが根源的な原因が「教育」ということばの中にあるのではないかと思い始めたのです。今回も文科省遠山大臣が「教育」ということばを84回程、7月7日の講演の中で使っておられました。


教育と学問の分離論
 「教育」ということばは、孟子が君子の三つの楽しみの中で語っておりますが、日本で良く使われ始めたのは、ほぼ120年位前からで、明治政府になってからと思います。当時、初代文部大臣になる森有礼と福沢諭吉の間で、「教育と学問」を分離すべきかどうかが議論になりました。森有礼は先進欧米諸国の技術に追い着くために、その前提として国民の“教育”水準を上げるため、段階を追って知識を教え込んで行く画一的な方法論を取ったのです。「ものを考えること」よりも、「ものを知ること」を優先したのです。「問いを学ぶ」学問は後でよいとする「教育と学問の分離論」を推し進めたのです。(『近代日本教育制度史』中島太郎著、岩崎書店)
 この考えに真っ向から反対の立場を取った福沢諭吉は、子どもの頃から問いを学ぶ「学問のすすめ」を啓蒙し、好奇心( Inquisitive )と探究心を持ってものごとを観察し、そうした心構えに裏付けられた合理的な批判精神を養うことを人づくりの目的として、日本の独立を考えたのです。
 しかし、結果は森有礼の分離論が日本国の人づくりの基本方針となったのです。この時に、Educationを教育と訳す間違いを犯してしまったのです。 Educationはラテン語の語源でEX(Out of)とDucere(leadして引き出すの意味で、中世にDuctumになる)の合成された言葉で、人の持っている潜在的な力、Human Potentialを引き出すという意味なのです。
 従って、人づくりの基本的な概念にはこうした発想が原点にあるべきで、教育ありきではないのです。「教育」はTeaching、教え育(はぐく)むことで、Educationととらえては、その言葉の内包している範囲から逸脱してしまうのです。教えるということは、他人(教える人)の頭を利用して考えさせることで、自分の頭で考える思考力の養成にはならないのです。無論、教えなければならないことはたくさんありますが、それは人づくりの方法の一つに過ぎないのです。「教育の構造改革」の第一の“理念”といわれている「『個性』」と「『能力』の尊重」の中でも、「自ら学び、自ら考え、行動し・・・」と書いてありますが、このことは教育を通しては困難になるばかりです。


「啓育基本法」と志(こころざし)
 川上正光教授(元東京工業大学学長)は、Educationを「啓育」と訳しています。そして、「 Educationを『教育』と大誤訳し教育にすり替えてしまったのは致命的失敗である。教育はTeachingに該当し、教えることで才能を引き出すEducationとは完全に逆の操作である。したがって、わが国では教えられるだけで、Educateは一切していないといっても過言ではなさそうである」(『独創の精神』共立出版)と言い切っています。
 Educationはむしろ「開智」とか「啓発」、「啓育」に近い概念で自らの力で自発的にものごとの道理を明らかにして行く好奇心と探究心に依存し、内発的意欲によって可能になるのです。教育は人から教わるということで外からの力に依存する学習なので、内発的意欲が生まれにくくなるのです。こうした「教育」ということばの概念を正確に吟味しないで使い始めたためにEducationの言魂を吸収できず、人づくりにおけるボタンの掛け違いが起きたのです。本来日本人の持っている潜在力がゆがめられるキッカケを作ってしまったのです。そして、そのことを正すことを戦後もしなかったのです。“高い志”ということばが「教育の構造改革」の中で使われていますが、内発的意欲の低下とともに本来の意味での志も風化し始めているのです。
 われわれの祖先が漢字を仮借して表語文字の日本語を作った時は、こんな判断ミスはなかったのです。しっかりと漢字の言魂を吸収したのです。このことがわかってから、私は「教育基本法」という言い方も中身と違っており、「啓育基本法」と直して内容を吟味しないと実と名は一致せず、人づくりの改革など出来ないと思うようになりました。また、志の言魂(ことだま)も「啓育基本法」の中であれば自然に生かされる概念になれると思います。


国を愛する心
 最後に申し上げたいことは、大臣が講演中には触れられなかった「愛国心」のテーマについてであります、この問題は今後も避けて通れないデリケートなテーマです。
 質疑応答の時間で、「愛国心というものは、どの段階で教えることになっているのか」との質問に対して、「(愛国心)教育をいつから、どのようにやるかというのは、工夫を要するものだと思いますが、これは本当に大事なことでございます。言わばしつけの基本でもあり、家庭でも学校でもこのことについてはしっかりと身に付けさせていく必要があろうかと思います。」と答えておられます。ここでも“教育”の呪縛の中で、愛の概念をとらえているように思えました。私たちが心から、人を愛し、家族を愛し、子供たちを愛し、動物を愛し、故郷や森を愛し、出身校を愛し、自分の属する組織を愛し、国を愛し,人類を愛するのにしつけと教育だけで可能でしょうか。
 自分の存在根拠を失い自信を喪失した人は、自分自身すらも愛せなくなります。その人に国を愛せよといくら教育しても反発するだけです。また、過去の教育によって教え込まれた愛国心がいかに脆いかを日本民族は敗戦の時に身をもって体験し、未だその国論を二分するという後遺症をひきずっているのです。
 愛国心は啓育されてこそ引き出され育まれ、より強くなる精神です。そのためには、愛の普遍的な概念が理解出来、実践出来る機会が必要です。そして周りとの関係と自分の将来に自信を持てるようになれば、自分自身を愛せるようになり、自分の周りの人々や万物に愛情を持てるようになるのです。そうすれば自分を守ってくれる国、その故郷、森や小川のせせらぎの自然に愛する心が生れるのです。そして愛国心を持てるようになり、義務を負えるのです。
 しかし現実は、愛の概念とは何かを考えさせて実践しなければならない時に、中学生の子供たちはサラリーマンよりも忙しい塾やけいこ事のスケジュールに追われ、相も変わらず激しい対他競争による受験勉強に取り組んでいるか、受験のレールからズッコケて閉じこもっているか、遊びまわっているかが日本の有様です。親も教師も自分のことだけで頭がいっぱいで、子供と直(じか)に接触し、話し合い、互いの価値観を理解し合ったり、価値の伝承をする時間はますます減る一方です。何が“知の時代”でしょうか。日本女性が子供を産まなくなったのは、心の中で無意識に自国とその教育を信用していないからだと言う人もいるぐらいです。日本の「国のかたち」以前に、「暮らしのかたち」自体が崩壊しつつあり、その立ち直りを迫られているのです。


名と実の一致
 今は文科省が資格取りの点数などの設定というような枝葉末節な目標に時間を費やしている時期ではないのです。本気で人づくりに関して国家百年の計を考えるのであれば、急がば回れの近道で、名と実をまず一致させ、思考を正し、人々の持っている潜在力を引き出す啓育に取り組んでいただきたいのです。無論、今回の教育改革の中には、すばらしいアイデアがいくつもあり、紙面の関係で指摘出来ないのが残念ですが、そろそろ形の見えやすい制度や仕組みを変えるだけではなく、人づくりに関係する人々の意識や心構え・Attitudesを啓育へと変革するような基本的対策も工夫されることを期待します。
 そして、遠山敦子さんならきっとこのことを理解していただけると信じております。


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