辻邦生先生と
中村真一郎先生の
 思い出
幸田弘子

 軽井沢は私にとって、辻邦生先生と中村真一郎先生の思い出が深くしみこんだ、特別な場所です。お二人を別荘 や軽井沢高原文庫にお訪ねしたときの記憶は、いまだに鮮やかに蘇ります。源氏物語の延長として、樋口一葉を ずっと読んできたのですが、その延長に、中村真一郎先生や辻邦生先生の文学世界が広がっていたというわけなのです。
 私は今年の舞台で、辻先生の作品を朗読させていただきます。短編「アネモネ」と「薔薇」の2編を中心に、そ のほかのエッセイや小説などの一部を、プログラムに乗せる予定です(6月9日、東京・紀尾井ホール)。
 辻邦生先生とはじめてお目にかかったのは、今から30年あまり前のこと。そのころNHKで、国文学者の尾形仂 先生とともに、古典文学の「公開講座」を担当していた私は、最終回のゲストとしておいでになられた辻先生と、意 気投合したのでした。先生の並々ならぬ教養とあたたかいお人柄に、心打たれました。
 その後、軽井沢のお宅にお邪魔したり、東京・高輪でお話をうかがったりなど楽しいお付き合いをさせていただ きました。先生の、茶色いフェルトペンで書かれたお手紙が家に届く度に、心暖まり力づけられる思いでした。
 うれしかったことは1977年、上野の本牧亭以来、私の朗読会に、欠かさず毎回いらして下さったこと。そし てそのつど、有形無形の励ましをいただきました。どんなに心強かったことか。
 私は、樋口一葉という擬古文の名作の朗読を柱にすえてきましたが、同時に、音楽的に美しい、格調の 高い現代の日本語で書かれた作品を読みたいと思い、まっさきに思いついたのが、辻先生の作品でした。
 最初に一葉の「にごりえ」と共に、舞台にかけたのは、「誇り」という短編。1988年、国立小劇場でのこと です。おかげさまでこの公演は、芸術祭優秀賞をいただくことができました。それまでいわば不遇だった、たった一 人ではじめた舞台朗読というジャンルに、辻先生のお力を借りて、はじめて光が当てられたといってもいいのです。
 中村真一郎先生との出会いは、もう一昔前。日本の古典から西欧現代文学まで、じつに幅広い知識を惜しげもな く与えて下さいました。公演のパンフレットの私との対談にも、何度も気さくに応じて下さり、縦横無尽にいきい きと語られ、時のたつのも忘れました。
 旧軽井沢が大好きでいらして、軽井沢ではよく、「ぼくはミカドにいるからね」とおっしゃられ、通りかかると、 先生がテラスにいらっしゃる。
 1日5枚でしたか、そんなノルマをご自分に課され、コーヒーを飲みながら原稿用紙に向かわれていたときのお 姿は、存在感がいっぱいで、あたりの雰囲気までヨーロッパのような、素敵な気配を振りまいておられました。
 運転されない中村先生の代わりに、私が車を運転して、文学者や芸術家のお宅などをご一緒に訪ねさせていただ くこともあり、貴重な経験をさせていただきました。
 お二人が亡くなられたことは、本当に寂しいことですが、お二人の言葉に対する思いを少しでも受け継ぐことが できたらと、思っております。