助産師回想録2
『かやの第一例目』
就職後、しばらくは先輩方について仕事をします。
一緒に組んで、病棟内の仕事(検温係、処置係、分娩係、新生児係)を経験します。
検温係は入院患者全般を見ますから、産科、婦人科に別れたリーダーがなります。
処置は点滴や検査、診察、処置の介助をします。
分娩は生まれるまでの管理と分娩介助です。
新生児は赤ちゃんのケアです。
で、記念すべき分娩室係り第一例目につく日がきました。
就職した四月のことです。本当に、初めての分娩室係りでした。
もちろん、いきなり分娩介助はしません。
主任さんについて、外回りとして分娩につきます。
外回りとは、分娩介助者のお手伝いですね。
分娩介助者は滅菌手袋をはめてしまうと、清潔な機械しか触れることができません。
ですから外回りの人間が記録をしたり、点滴やモニターの管理をしたり、外部との連絡係りをしたり、
赤ちゃん受け入れの準備をしたりと、細々した仕事があります。
初めてのお産の方でした。
分娩は順調に進み、胎児心拍にも明らかな異常もないまま子宮口全開。
怒責を開始し、その後・・・赤ちゃんは生まれました。
『おめでとうございます!』分娩室に声が響きました。
すぐ赤ちゃんには吸引がされ、気道の確保がされます。
そして、第一啼泣があります。つまりは、肺が膨らみ呼吸をし始めた証拠になります。
が、この子は泣きませんでした。
泣こうとしていました。一生懸命、口を開けて息を吸おうとしてました。
『ほら!泣いて!』
主任の声、ドクターの声が焦ってきました。
呼吸をしないため、みるみる肌色がチアノーゼを帯びてきました。
おかしい。
新人の私に何が出来るでしょう。息をしたくて苦しむ赤ちゃんを横目に震えていたかもしれません。
『○○先生(小児科のドクターの名前)呼んで!あと、誰か応援を!』
私が分娩室を飛び出すまえに、新生児室の先輩がすぐに呼んでくれました。
あっという間に集まってくるスタッフ。
小児科のドクターが来る前に、蘇生開始。
私は震える手で、ドクターの指示通り挿管の準備をするだけで精一杯でした。
スタッフが口々に『がんばれ!泣いてごらん!がんばれ!』と赤ちゃんに声をかけました。
出産したお母さんは、どんな思いで挿管される我が子を見ていたでしょう。
主任と分娩についたドクターは、母親に声をかけながら胎盤を娩出したり縫合をしていたと思います。
とにかく私は、生きようともがく赤ちゃんしか目に入っていませんでした。
挿管し、人工呼吸と心臓マッサージをしながらNICUに搬送。
数十分後。死亡との報告がもたらされました。
NICUについて行った先輩が茫然とした顔で私の前に立ち、
『赤ちゃん・・・死んじゃったよ』と言った時の表情、声まで、今でも思い出せます。
見せてもらった胸部写真は真っ白でした。
重度の横隔膜ヘルニア。肺は他の内臓に圧迫されて、形成されていませんでした。
つまりは母親の臍帯から酸素を得られている胎内でしか、生きられない子だったのです。
充分に胎内で成長した・・・綺麗な赤ちゃんでした。
一晩、分娩室で赤ちゃんを預かりました。
翌日、退院する時に着せるつもりだったのでしょう。
真新しい真っ白のベビー服を渡され、主任と一緒に服を着せました。
そして、小さなお棺に納めてお花を入れました。
生まれて初めて、冷たくなった赤ちゃんを抱きました。
同期で就職した子も呼ばれました。死後の処置を見ておいたほうがいいと。
彼女は、ポロポロと泣きました。
先輩が『こんなことは、これから沢山あるのよ。』と彼女に語って聞かせていました。
私は泣きはしませんでしたが・・・身を持って知りました。
私の働く場所は、こういう場所なのだと。
よく言われました。
『助産婦さんは、いいわよね。他の科と違って、おめでたいから。人も死なないしね。』
それは間違いです。
おめでたい、その裏側で・・・たくさんの命が消えていくのが産科です。
元気に生まれて当たり前。と、思われている産科で命を失うということは、一般の人には考えられないような事です。
その日の夕方。
赤ちゃんを亡くした方のもとへ行きました。
その人はベッド脇に立ち、黙って泣いていました。
家族も誰もいなかった。
家族は亡くなった赤ちゃんを連れて帰っていたのかもしれない。
けれど、あまりに彼女は孤独でした。
何か慰めの言葉を言ったと思います。
ですが、就職したばかりの22ぐらいの娘に何が言えたでしょう。
何も届いていない・・・という、無力感と情けなさだけが残っています。
今なら・・・何と声をかけるでしょう?
まだ、答えは見つかっていないのです。
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