真実の仏陀の教えはこうだ!

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 幸福の科学の会員よ聞きなさい!真実の仏陀の教えはこうだ!

麻原彰晃『幸福の科学の会員よ聞きなさい!真実の仏陀の教えはこうだ!』オウム出版 初版 91年10月27日

■第一章 大川流仏教解釈の大ウソ

1 非真説・八正道

◎仏教と似て非なる“大川流八正道”
 八正道といえば、仏教の七科三十七道品の中でもその根幹をなす重要な教えであり、実践方法である。
 その八正道の名を語り、“現代の仏陀”と称する大川隆法氏が、とんでもない教えを繰り広げているのが『真説・八正道』(幸福の科学出版)である。まずはその問題点にメスを入れてみたいと思う。
 八正道は、一、正見(正見解)、二、正思(正思惟)、三、正語、四、正業(正行為)、五、正命(正生活)、六、正精進、七、正念(正記憶修習)、八、正定(正サマディ)という八つの聖なる道から成り立っている。
 この順番にも意味があるのだが、大川氏は順番を入れ替え、二番目に来るべき正思を六番目にもってきている。
 しかし、本書では一応正しい順に沿って、取り上げてゆきたい。
 なお、大川氏の著書『釈迦の本心』に“八正道とは何か”という、氏の八正道についての見解が述べられていて興味深い。まずは、その根本的な八正道のとらえ方について考えてみたいと思う。
       (『釈迦の本心』略)
 これは明らかに間違いである。なぜならば、釈迦牟尼は解脱なさり、一番最初にお説きになった法、これが聖なる八段階の道、つまり、八正道なのであるから。
 つまり、このとき釈迦牟尼は四つの絶対的真理(四諦)と聖なる八段階の道をお説きになったのである。四つの絶対的真理とは、
一、苦 (この世は苦である)
二、苦の生起 (苦は必ず生起するものである)
三、苦の滅尽 (苦は滅することができる)
四、苦の滅尽に至る方法 (苦の滅尽に至る方法が存在している)
という四つのことで、この最後の「苦の滅尽に至る方法」、それが八正道なのだ。
       (『釈迦の本心』略)
 この八正道の説明については、あまりにも仏典の内容と違いすぎるので、ここではパーリ語で書かれた原始仏典の日本語訳を載せさせていただく。

〔八〕第八 分別
  1. サーヴァッティーの地にて。
  2. 「向煩悩滅尽多学男たちよ、君たちに聖なる八段階の道を説き分別しよう。聴きなさい。よく作意しなさい。私は説こう。」
    「かしこまりました、尊師よ。」
    と、彼ら向煩悩滅尽多学男たちは、世尊に承諾し申し上げた。そこで、世尊はこう演説なさった。
  3. 「向煩悩滅尽多学男たちよ、聖なる八段階の道とは何であろうか。
    すなわちそれは、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正奮闘・正記憶修習・正サマディのことである。
  4. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正見解とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、すなわちそれは、苦しみにおける精通・苦しみの生起における精通・苦しみの滅尽における精通・苦しみの滅尽に至る方法における精通のことである。向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正見解というのである。
  5. 向煩悩滅尽多学男たちよ、そ 黷ナは、正思惟とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、すなわちそれは、解放の思惟・非邪悪心の思惟・非残酷の思惟のことである。向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正思惟というのである。
  6. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正語とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、すなわちそれは、虚言を断つこと・中傷を断つこと・悪口を断つこと・軽薄語を断つことである。向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正語というのである。
  7. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正行為とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、すなわちそれは、殺生を断つこと・窃盗を断つこと・非神聖行を断つことである。向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正行為というのである。
  8. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正生活とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで聖なる多学の弟子は、誤謬生活を捨断して、正生活によって日々を送る。向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正生活というのである。
  9. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正奮闘とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで向煩悩滅尽多学男は、まだ生起していない悪不善の法則が生起しないように、決意を起こし、奮闘し、精進に着手し、心を引き締め努力する。
    既に生起した悪不善の法則を捨断するために、決意を起こし、奮闘し、精進に着手し、心を引き締め努力する。
    まだ生起していない善の法則が生起するように、決意を起こし、奮闘し、精進に着手し、心を引き締め努力する。
    既に生起した善の法則を集中継続し、混乱することなく、さらに多く学び、充実し、修習し、完全にするために、決意を起こし、奮闘し、精進に着手し、心を引き締め努力する。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正奮闘というのである。
  10. 向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正記憶修習とは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで向煩悩滅尽多学男は、身において身を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、世界における渇望と激痛を除去しなさい。
    感覚において感覚を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、世界における渇望と激痛を除去しなさい。
    心において心を観察してとどまり、熱心に正智し記憶修習して、世界における渇望と激痛を除去しなさい。
    法則において法則を観察してとどまり、 M心に正智し記憶修習して、世界における渇望と激痛を除去しなさい。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正記憶修習というのである。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、それでは、正サマディとは何であろうか。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、ここで向煩悩滅尽多学男は、諸々の愛欲を遠離し、不善の法則を遠離して、有熟考有吟味にして、遠離から生じる喜と楽とがある、第一静慮を具足してとどまる。
    熟考と吟味を静止し、心の中を落ち着かせ、心が一点に集中し、無熟考無吟味にして、サマディから生じる喜と楽とがある、第二静慮を具足してとどまる。
    喜から離愛著し、無頓着となってとどまり、記憶修習し正智して、身によって楽を覚え、諸々の聖人が『無頓着にして記憶修習がある楽の時を過ごす』と明かす、第三静慮を具足してとどまる。
    楽を捨断し苦しみを捨断して、以前の幸福と激痛とを全滅したことから、不苦不楽にして、無頓着と記憶修習による清浄とがある、第四静慮を具足してとどまる。
    向煩悩滅尽多学男たちよ、これを正サマディというのである。」(『道相応』八「分別」)

 この仏典からもおわかりのように、この八正道は、反省の材料ではなく、実践の発展段階なのである。
 つまり、言葉から始まり、行為の統御、そして生活の統御、その生活から人間を超えるための奮闘努力、そして、神の世界あるいはニルヴァーナ(煩悩破壊界)を思念する、そして三昧(サマディ)に入るということなのである。
 この詳細については、他の項で述べることにする。
 だが、皆さんは、ここでも大川氏は八正道の順番を替えていることにお気付きだろうか。『真説・八正道』では、第六番目にきている正思が、この『釈迦の本心』では三番目となっているのである。そして、本当の仏典では二番目に位置しているのだ。この基本的であり重要な教えである八正道をコロコロと変えてしまうこと自体、信用がおけないのではないだろうか?


 朝までデスマッチ 麻原彰晃×栗本慎一郎

世紀末を跋扈する新新宗教のドグマ

(麻原)大川隆法氏が仏陀だと言うのなら、それは問題はないと私は思います。仏陀というのは、“目覚めた人”という意味ですから。この時代に新しい ァ陀が登場し、新しい法を説くということは、あっていい。しかしながら、大川氏が、約二千六百年前に実在した歴史的存在としての“釈迦牟尼”の生まれ変わりであると宣言されるのなら、これはやはり反論せざるをえない。
 釈迦牟尼の教えは、密教、仙道、ヨーガ、神道すべてを内側に内在させている完璧な教えであって、この教えと大川氏の教えの間のズレが、あまりにも大きい。そこで仕方なく、たしなめるという意味で『幸福の科学の会員よ聞きなさい』を書いたわけです。
 大川隆法氏への疑問の第一は、約二千六百年前に実在した歴史的存在としての“釈迦牟尼”が二千六百年の間、仏陀として生まれ変わらなかったのに、なぜ今、仏陀として生まれ変わるのか。つまり輪廻転生は連続したものであり、そのあいだの二千六百年は一体どこへいったのかということです。
 次に、大川隆法氏が釈迦牟尼の転生ならば、なぜ、大川隆法氏に釈迦牟尼が乗り移るのか。大川隆法氏が、釈迦牟尼の転生ならば、大川隆法氏と釈迦牟尼とは同一人物であり、つまり同じ魂であるから乗り移りようがないのではないか。高橋信次氏の霊が大川隆法氏に乗り移るということならば、それはありうるかも知れない。
( 『サンサーラ』一九九二年一月号)


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