アンケートで寄せられた声 比丘尼さん<4>

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Date: 3 Sep 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
肉体をもつ皆々様は、ご自分達の思いに限界があると思ってはなりませぬ。
あなた様が本日思われましたように、この世の一パーセントの望みは、あの世の世界では、残り九九パーセントを瞬時に引き寄せるほどの力を持っているのでございます。
たかが一パーセントのためにと、この世では侮る方々もいらっしゃいますが、決してそうではないということを知らなくてはなりませぬ。

神々の世界には、不可能などございませぬ。
思った通りの世界が、そこに現われて参るのでございます。
常に神の望まれる正しき方向へ向けて、すばらしき良き未来を、自らの中に思い描かなくてはなりませぬ。この思いを強めてゆくことが、大切でございます。
あなた様へのこの通信は、まもなく一冊の本となって、天上界の計画のもとに人々の知るところとなりましょう。この本により、実に多くの方々の魂を目覚めさせることになります。
総ての病める魂を、神の懐へと誘いたいと思っておるのでございます。
これとて、地上にある皆々様方の善なる心の力なくば、天上界の神々のご協力を仰ぐことは出来ないのでございます。

自らを空しくして、謙虚な心で神々のお心をおもんばかり、決して諦めることなく、一人残らず手を差しのべていただきたいものでございます。

神々の 声援を背に 立ちあがる
ますぐき心で けふも生きなん


Date: 5 Sep 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
「当会の教義に従い、御本尊を拝し、植福を一心に行なう方々の行かれる世界は?」とのことでございますが、その団体を光の天使達が指導しているならまだしも、明らかに入れ替わった(地下の者達)状態では、いくら純粋で正しいと見える方々でありましょうとも、間違って指導する者の配下におかれ、宗教霊に操られ、さらに信者達を狂信・盲信にしてゆく事実があります。このような方々がゆく世界が天国だと、果たして言えますでしょうか。
光の磁場ではなく、闇の世界でございます。

当会内部は今や、闘争と破壊の阿修羅霊が跋扈する世界でございます。
他宗に対し批判・非難すればするほど、地下の者達へ悪しきエネルギーを供給し続けており、地下の者達はそのエネルギーを得て、ますます大暴れするのでございます。
いくら純粋な方でありましょうとも、何の影響を受けないわけではなく、魂をグルグル巻きにされる窮屈な感じがありましたことでしょう。それとて、守護霊は、必死でお守りしているのですが、限界というものが出て参ります。

意味ありて残る方もおりましょうが、ギリギリの限界を機に、守護霊ももう危ないと察知すれば、やめる方向へと合図を出して気付きを与えます。それも、正しく守護されている方、日々正しく生きて守護霊にしっかりと守られていればの話でございます。

浮き草の 漂ふほかに 道はなし
心のゆくえ 今はいずこに


Date: 26 Sep 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
物事には始まりがあり、過程(プロセス)があって終わりがあります。
長たる方が三年間も構想を練ったものならば、その映画には無駄がなく、会員のみならず一般の方が見ても、感動が湧き上がる素晴しい映画とならねば嘘でございます。それがコマ切れの断片的な映像で、つながりがないということは、長たる者、三年前から天上界の霊指導を受けておられない証明でもありましょう。
間違ったものに指導を受けておれば、常に安らぎなく、考えも常にコロコロと、猫の手に転がされている玉のようでございましょう。ましてや、この映画は一回見ただけでは分からない、三、四回見ないと分からないなど、申しておることが支離滅裂と申せます。

神理は、小さな子供にも分かるように、平易な言葉で語られるべきであり、いえ、語られてこそ神理でございましょう。これを「大和ことば」と申すのでなかったのでしょうか? 一回見たくらいでは分からない内容ならば、当会のご縁に触れた方ならば感じる心があるはずでございますのに、感動が起らない自らを<不思議と思わない自ら自身>を不思議に思っていただきたいものでございます。
一回見て分からないものは、二回見ても三回見ても分かるはずがございませぬ。ストーリーとしての流れが、その中にないからであります。起承転結なきゆえ、コマ切れとなるわけでございます。
何故?とここで疑問が起こらなければ、ここで思考は停止致したことになります。何故、なにゆえにコマ切れとなるか、元(原因)を辿ってさかのぼってゆけば、この映画の構想を練った人のところへ行き着くわけで、おっしゃることが手の平を返したようにコロコロと一貫性なく、他宗派を排撃し、会の礎となって下さった方々を平気でこき降ろし、恩知らずと罵る、自らを正当化せんがため他を貶める言葉を、自らが天上界を指導しているなどとおっしゃられる、この方がお作りになったわけでございます。どのような心の波長であるか、どのようなものを引き寄せているかが分からなくてはなりませぬ。

たとえて申せば、当会のご縁に触れた方々とて、神理の書籍を手に取り、「霊言集」を読み感動したからこそ、会員となられたのでございましょう。読んで心から湧きあがる感動があったればこそ、会員となられたわけではありませぬか?
一回では分からなかった。三回も四回も読んでやっと感動して会員になった、とでも申すのでしょうか。一回みて初めに感動しないものは、三回、四回と何回みても同じことでございます。場面の中には、一カット一カット胸にグッとくるものはありましょうが、それとて感動というのではなく、この地上に生まれてくる前に天上界で誓ったことを潜在意識下で思い起こすからに他なりませぬ。
映画ひとつとりましても、会員が感動しないものを一般の方々が感動するわけがございませぬ。初期の頃の「霊言集」をご存知の方は、何度読み返しても感動があったはずでございます。すでに神理が知だけのものとなり、難解となっていることの証明でございます。「知」のみで悟ろうとするからこそ、このような方向へ行ってしまうのでございます。
上のほうから三、四回見ないと分からないと言われ、言われるままに従うことが「信仰」と思う方にとりまして「悟り」は無縁でございます。
自らの心で、物事を深く掘り下げて、自らの心で思考してゆかなくてはなりませぬ。言われたままをその通り、よく咀嚼しないで納得しているような状況でございます。
その上から言われることが間違っている場合は、その責任をとるのは自ら自身である、という厳しい現実がありますことを忘れてはなりませぬ。


Date: 26 Sep 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
天上界の神々は、当会の間違いに対しては正すおつもりでございます。今現在、間違っているものは間違っているのでございます。

心一つとりましても、皆様方、書籍を読んで分かったようなつもりでございましょうが、上から言われるままに従い、何か疑問に思っても、<そう思う心は間違い>とすり替えてしまっている状態では、真に心の何たるかを分かっているとはとても申せませぬ。
たとえて申すなら、皆様方、海岸の波打ち際に立ちて海を見て、砂や波に触れもせずに、海とはこういうものと探究したような気持ちになっておるのでしょうが、本を読んで、心とはこういうものと、探究したような気持ちになっているのと同じでございます。
海の水をなめてみなくては、本当に塩辛いかどうか分かりませぬし、砂を手にとり触れてみぬことには、その感触というものが分かりませぬ。実際に泳いだり潜ったりしてみないことには、身体が川で泳ぐよりも軽いという実感が分かりませぬ。海に潜ってみないことには、どのような生き物が棲んでいるかも分かりませぬ。たとえ頭では分かっていても、実際には納得がいっていないことになります。

心とて、同じことでございます。書籍や講演で学んだだけではなく、自らの心の作用・心の動き・思考のパターンの傾向性、中道であるや否やも、自らの心を深くみつめて探究してゆかねば、心というものの働きは分からないものでございます。
「知」で学んだだけで「八正道」を分かったつもりでも、正しい言葉の調律や心の統御もできてはおらず、実際には人を悪く言うその心の在り方は、とても人を救っているなどというものではございませぬ。自らの名誉やプライドを守らんがために、自己保身の心の動きゆえに、そのような誤てる言葉が出るということであります。
それすら自らを厳しく見れず、総て他へ責任転嫁するのでは、本末転倒でございます。

「知」のみで悟るは無理でございます。悟れるような錯覚にしか過ぎませぬ。
自らの心を正しく見れておらず、心の世界を真に知ったとは申せませぬ。自らの思ったこと・行なったことの判断、その結果については己自身が否応なしに責任をとらされる、厳しい世界なのでございます。もう少し、自らの心というものについて深く考える方が増えて参りますことを切に願っております。

内なる心の探究・心の浄化・対話ぬきに、神理は真の叡智となってはゆきませぬ。自らの心がつけてきたアカやチリを落とす、心の浄化が第一義でございます。それは決して、難しいことではありませぬ。神理を学問にしてしまっては、分からぬ・気付かぬ方は出るばかりで、一生悟れないと申せます。

単純で意外と思える事柄の中に、神理というものは煌きを放って存在しております。難解なものの中に、神理を見出すことは不可能でございます。大自然の中からも、日々の中からも、学びはたくさんございます。

当会は「知」のみで、実践なき集団と化しております。「知」による学びで自らを高くし、人を見下す心でありながら、人を救えると自負しております。しかしながら、内部に火災が発生していることにも気づかず、正邪を見分けるどころか、いつも湧き出る疑問はすり替え、自らの家族を不幸にしていることにも気づかず、「自らを理解してもらえない」と見放しておりながら、己自身の心すら救えていない現状を認めようともしておりませぬ。

心こそ総ての元の始まりでありますのに、神理を学ぶことが、まるでエリートのような、ファッショナブルなそのような感覚では、長たる者の回復はお気の毒ですが望み薄と申せます。嘆かわしい、としか申し上げようがございませぬ。

会員の皆様のご家庭や職場が、大きな不調和で被われております。長たる者を崇め奉り死守せんとする前に、ユートピアの基ともなるご家庭や職場を見直していただきとう存じます。そこにユートピアなくば、その輪は広がって参りませぬ。
どうか、もとなる心にたちかえり、内なる理性の眼を開き、心の王国を死守していただきたいと切に願ってやみません。

心こそ すべてのもとの 始めなり
心忘れて 何の学びぞ


Date : 27 Oct 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
根源なる神は、人に宿ることは決してございませぬ。
肉体に宿るは神ではなく、神近き高級霊以外の何物でもございませぬ。

神であるならば、たとえ悪と見えし者であっても、総ての人を、幼き愛し子のように抱きかかえ、包み込むでありましょう。真実の神は、善悪を超え、生きとし生けるもの総てを育み続ける、大いなる愛の光以外の、何物でもございませぬ。
もはや人格を超えたる光の存在そのものであり、その光の量たるや、あまりにも巨大なるがゆえ、決して人間に宿ることはできないのでございます。これは、あの世の常識でございます。
神は、決して他を裁いたり、非難・批判の類いに至っては、なさるわけがございません。そのような心はすでに天使の心ではなきことを、ここでお伝えしておきたいと思います。

真実の信仰は宗派を超えるものであり、総てを包み込むものでございます。
生き神信仰の中にも、おすがり信仰の中にも、ご本尊信仰の中にも、真実の信仰はございませぬ。サンガーはあくまでも人の手によりつくられたるもの、その目的は、神理を隈なく伝えるためのものであり、会員を手枷・足枷で縛りつけるようになったら、もはや魂の牢獄でしかありませぬ。

教団が魔界の者の影響を色濃く受けるようになりますと、まず手始めに、そこに集う方々に対し規律をつくり、縛りつけます。次に外界との遮断を図り、外からの情報を歪曲して伝え、自分達の本しか読ませないようになり、真実を覆い隠そうとし始めます。教団に対する外部からの意見の一切をはねつけ、自らを省みる材料とはせずに、猛反撃に出ます。自分達にとって都合の悪いことは総て人のせいにし、平然と嘘・偽りの言葉を口に出して欺こうとします。語る言葉に一貫性がなく、手の平を返すが如く、二転、三転致します。そして、自分達の教えでしか救済できないとか、自分達の団体が本筋であるとか、非常に狭まった、枠にはまった考えに固執し、正当化させようと致します。教義の矛盾に対しては、辻褄を合わせるべく、自らの手によって、神聖なる『法』を汚しめ、ねじ曲げていきます。
心ある方は魂の縛りを感じ、その黒い波動に耐えられなくなって、どんどん辞めていく現象が現われますが、教団側は、どうして辞めていくのかが理解できません。
愛の心はもはやなく、平気で人をこき下ろし、紙屑のように扱います。いよいよもってひどくなりますと、自らを神と名乗り、総ての人を自らの前にかしずかせようと致します。天使は、決してこのようなことは致しません。

今や、悪しき者に操られ、天上界への反乱を致しておるこの現状を、見破らなくてはなりませぬ。堕天使を封じ込める力をお持ちなのは、エルランティ様やモーゼ様、そしてミカエル様以外にない、という事実から目を背けてはなりませぬ。

いつの世も、末法の時代ともなりますと、魔は一斉に競い立つものでございます。ことに、正法が説かれる時は、あらゆる手立てを使い、これを阻止し、邪魔だてせんと音もなく忍びより、心の一瞬のスキを狙わんとして目を光らせておるのでございます。
堕天使は、自らが神になりたくて、神に対し刃向かったのでございます。エルランティ様、ミカエル様に対しては、異様なほどの憎しみをもっております。
先生に今ついておるものは天使の類ではなきことを、見抜かなくてはなりませぬ。
善なる魂を窮屈なまでに、不自由なまでに、縛り付けるものの正体を見破らなければ、この世は闇と化してしまいます。
このままでは、初期の霊言集や原理シリーズを『文証』として降ろしたる意味もなくなってしまいます。

いったい皆々様方は、学びをどのように捉えて参られたのでしょうか。聖なるものも邪なるものも見極められぬとは、ほんとうに嘆かわしい限りでございます。
堕天使に加担していることも気づかないとは、、、。
先生の真我なる心を、宇宙の塵となさるおつもりか。それが、真の仏弟子と申されるのか。
師の真我なる心は、いま苦しんでおられます。その心が断崖絶壁に立ちておるのを知ってか知らずか、身を捨ててでも、身を投げ打ってでもお止めしなくては、真の仏弟子とは申せませぬ。

無私の心で、当会の礎となって下さった方々があったればこそ、今このように宗教法人となりたるものを、、、。真実を知る、総ての者の口封じをしたおつもりでしょうが、会員は騙しおおせても、神の目をごまかすことは決して出来ませぬ。
悪しき言葉で人を非難・批判する攻撃的な態度から、法を説く立場にないものが先生を支配しておることに気づかなくば、皆様方の心の目は用をなしておらぬことになります。

神をも恐れぬ人々よ、皆様方は、神に刃向かおうとしている自らの愚かさに気づかなくてはなりませぬ。神に刃向かい、一度たりとも勝利した者はおりませぬ。自らのしていることが、まだ分からぬのですか。神のみ前に、汚れたる心で立つことは許されませぬ。
この真実に気づいたならば、心あるならば退きなさい。永遠に、魂の悔いを残すおつもりでしょうか。このままでは、済まされますまい。堕天使に加担するものの罪は大きいことを、知らなくてはなりませぬ。

沈黙を守り続けてこられました天上界の神々が涙しておられますことも知らず、悪なる心になびく自らの心の弱さを、恥なくてはなりませぬ。法を説く者とて、同じことでございます。その心に一点の曇りや汚れがあってはならぬほどの、厳しい世界なのでございます。
皆様方は、後世の人々にまで、間違った生き方を強いるおつもりでしょうか。一時期退き、先生に反省の時を与えなくば、このままでは、この地上は悪しき想念の曇りで覆われてしまいます。

これは、皆様方だけの問題ではなく、この地球人類すべての運命がかかっておることを知らなくてはなりません。多くの方々の尊い魂をお預かりしているこの責任の重さを何と致すか、と申し上げとうございます。

総ての宗教は、互いに排斥し合うのではなく、互いに歩み寄り、理解を深め、心を一つにして、この地球世紀の同時代を生きる同志として、乗り越えていかなくてはなりませぬ。宗教のあるべき姿もここに行き着かねば、総てを統合することなどできないものと思われます。
非難・批判はいがみ合いの元であり、愛なき行為の何物でもありませぬ。
同じ土俵に立ちてもの申すのではなく、手をつなぎ、良き感化を与え、改めるべき所は改め、より良きものとしていかなくては、この地上での宗教の果たす役割も意味がなくなってしまうというものでございます。
当会もこのままでは、自分達のなした思いと行ないの集積により、かなりの反作用が待ち受けております。悔い改める時が近づいていることを知るに至りましょう。


Date : 27 Oct 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
この出されるべくして出される本書は、天上界の神々の命を受けて、この度の発刊と相成りました。天上界の神々は沈黙したままでは決してない、ということに気づいていただきたいものでございます。今、この真実に気づかずば、大変な未来が待ち受けております。決して、魂を悪魔に売ってはなりませぬ。自らの心の王国を死守せよ、と申し上げます。

神よ、あなた様の愛と慈悲の光がこの地上に満ちますように。
いつも我らをお導きご加護下さり、心から感謝申し上げます。
どうか、心ある者に救いの手をお差しのべ下さいませ。
彼らに光をお与え下さい。彼らの罪をお許し下さい。
心に安らぎをお与え下さい。

おもひこそ すべてのもとの はじめなり
この日のために 実りむすびし

(完)


Date : 27 Oct 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
皆様、10ヶ月間という長期間にわたるお付合いありがとうございました。

私が投稿しましたものは、関谷さま編集の『もとなる心へ』(1995年2月20日、日新報道刊)と、内容的には同一のものとなっております。すでに絶版になってしまいましたので、今回のような形を取らさせていただきましたことを、ひとことお断りしておきます。尚、著作権法に違反するようなことはしておりませんので、その点につきましての心配には及びません。

最後になりましたが、このような機会を提供して下さいました幸子様には深く感謝したいと思います。

ありがとうございました。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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