投稿時間:2002/01/12(Sat) 11:00 投稿者名:坊ちゃん Eメール:fullnelson88@hotmail.com タイトル:要旨その3(最終回) あの世ではこの世に比べ善悪が極端に出てくるから、 よりコントロールが必要になってくる。 よって、あの世の視点を持つ宗教においては、 結果として出てくる行為以前において厳しいコントロールが要求される。 ここにおいて世俗法を超えた面ある。
そして、もう一つ超えた面ある。 仏教教団に逃げ込んだ人は世俗の法に引っかからない。 例えば、アングリ・マラーの場合がそうだった。 サンガの中のことにおいては、この世の法律を適用すべきではない。 西洋では教会の司祭が犯罪者をかくまっていても罪にはならない。 この世の法を超えた神の法を認めている。 こういう認識がある。 神の許し、仏陀の法というのは、この世を超えたるものである。 地球をつつみ育てている。許し育んでいる。 この認識は一緒。
しかし、オウムみたいなのもある。 詐欺師みたいなものも出てくる。 それは、宗教戦国時代を予告し、宣戦布告してきた。 そして、悪いものが次第に明らかになってきた。 それ自体は宗教の善悪が現われてきたということ。 宗教学者は、多様な価値観があっていいのではないかと、 ファジーにやってきた。 それに対し、私たちは、「いや、そうではないのですよ」 ということを言ってきたのです。
その反面として、唯物論者の邪見というのもある。 これとの戦いもこれかからも続いていく。 逆風でもあり、順風でもあるところを渡っていかねばならない。 宗教の権威は断じて保っていかねば。世のため人のため・・・。
人間が仏子であり神性を宿っている存在であることを伝えていかねばならない。 愛を伝える者であったら、だまして金を巻き上げたりするべきでない。 脅迫などするわけがない。 そういうことをするのは、自己保存だと思う。 団体の利益を擁護するのは当然だが、より大きな観点で見る必要ある。 そうでなければ、かつてのナチスのようになってしまう。
もう一段、上位の法に準じて、それを推し進めることが大切。 これまでの生き方を振り返ってみる。 「愛を与えているか」 「集団として愛を与えて生きているか」 「相手の幸福を願っているか」 自分も幸せになりたいと思うがごとく相手もそう思っている。 愛されたら、それを返していくことできる。 自分は今まで人に愛されたことがなかった、という人でも愛していくことです。
抽象的な話で、大きくなるとわからなくなるが、 愛を与えているかどうか、毎日、反省してみればいいのです。 与えること少なく、奪うことが多い。 そして、さらに奪いたいと思う心、これが煩悩ということです。
自分の欲望を適正なもの合わせていく、 欲望を捨てて幸福になるというのが仏教です。
幸福の科学が大きくなればなるほど、当時の釈尊の気持ちがわかってくる。 個人としても団体としても、 より、すばらしいもののために何ができるか。何が捨てられるか。 煩悩は欲望が悪い方向に固まること。 カスのようなもの。煙。なくすことはできない。 よく捨てることです。
愛を与えるということをお話しました。
常に原点に回帰する心を忘れないで下さい。 (了) |