韓国人の心に潜む不思議

韓国人の自尊心

   

韓国人は、「自尊心」(자존심)という言葉が好きだ。「私の自尊心は、どうなるの?」「自尊心が傷ついた」等々、誰でも、よく使う言葉である。
この「自尊心」というのは、韓国人にとって、一体、何なんだろうか?
日本人が、「自尊心」というのを、聞いたことはないのに・・・。

「自尊心」を大辞林(三省堂)で調べると、①「自分を優秀な者だと思う気持ち、尊大に構える心。プライド」、②自分の品位を保とうとする心。ブライド。、と説明されている。
これを簡単に言うと、劣等感の裏返しである、と言えるのではないだろうか。
韓国人の識者も言うように、彼らは、実に劣等感、被害者意識の強い民族である、といってもよい。
だから、その琴線にふれた瞬間、反射的に「自尊心」という言葉が飛び出してくる。
韓国人は、自分は他より優れていると思い込み、人並み以上にプライドが高く、誇大妄想的な部分がある。
少しでも、気分にさわるようなことがあると、「プライドが傷つけられた」「自尊心が傷つけられた」と言って、騒ぎ立てることになる。
日本人から見ると、思ってもいない方向に進んでしまうのである。
これが、個人的レベルでさえ、人間関係をむずかしくする大きな要因である。お互いに、本音で話ができないのである。
実に不幸なことだと言わざるをえない。

その原因は、どこにあるのか、どうすれば解決できるか、などという難問に挑戦するつもりはない。
おそらくは、深い歴史的理由により、そのようなDNAが埋め込まれてきたのだろうと想像する。
あえて、想像するならば、小学校教育にその根源が潜んでいるような気がする。
国民みんなが同じように考え、意識するということは、共通のすりこみの場があるはずで、 それが教育現場だと考えると納得がいく。
常に”一番である”、と繰り返し、叩き込まれて、そこで、いつしか、自分は優秀である、と思う気持ちが芽生え、定着し、やがて、これを大切にしなければならない、という心が醸成される、という論法である。
そして、長じて、誰もが、「自尊心、自尊心」と言うのでないか、というような気がする。

考えて見ると、「自尊心」とは、便利な言葉である。
何か、自分に不都合が発生すると、「自尊心を傷つけられた」といって、相手のせいにすることが、韓国人の多くの人の常套手段であり、きわめて容易なことである。
そんなこと言われても、当の日本人も、彼らの「自尊心」って、何のことなのか、合点がいかない場合が多いであろう。
双方が、漠とした話をしているのなら、これに対して、論争を挑んでも、仕方ない。
ほとんどの場合、「자존심」の意味など、理解していないだろうから、まかれているのが最善である。
しかし、このことが、更に、自分自身で、自らの劣等感を助長させていることに、気がついていないのだろうか、と思う。
あまり、気にしないで、別の次元で、お互いが理解し合うように努めることが大切であろう。