韓国人の心に潜む不思議

ともだち

   

日本でもそうだが、韓国の人たちも、学校を卒業して社会人になってから、真の”ともだち”ができることは少ないらしい。
韓国人の知り合いに訊くと、”ともだち”というのは、小学生、中学生、高校生、大学生などの学生時代にできるものだと言う。人によって、その中でも、もっとも親しいともだちができた時代が異なるようである。
だいたい、中学生、高校生の時代の友達と、長く親しくつきあっている人が多いようである。
これは男性でも女性でも同じだ。

”ともだち”を定義することは難しいことだが、とにかく、お互いに連絡が絶えることがなく、何か機会を作っては、会って話をし、食事をし、酒を飲み、悩み事や相談事があるときには、相手に成り得る人だ、と考えておこう。
そうすると、学生時代を共に過ごす機会がない外国人と、ともだちになることはありえない、ということになる。
実際、そういうことだろう、と思う。

社会人になって、会社などに入ると、それぞれ立場も、境遇も、生活環境も異なる人たちの集団である。
同じ韓国人同士であっても、心を開いて接することは少ない、といっても過言ではない。
もちろん、気の合う人や、興味や趣味が共通で、一緒に話す機会が多い仲間もいることだろう。しかし、それは、単なる、”知り合い””仲間”であって、”友達”ではないのだ。

ましてや、外国人が”ともだち”として、位置づけられるなどということは、皆無に近いだろう。 何か偶然の機会から知り合ったり、”メルトモ”として知りあったりして、しばし、熱中して、連絡し合って、メールしたり、手紙を書いたり、電話したり、偶には会ったりしていても、やがて、自然に音信不通になってしまうケースが多いのではないか、と思う。
相手が、男性であっても、女性であっても、事態は同じである。
韓国人から見ると、日本人も同様である、と言う。
いつの間にか、返事が来なくなったり、連絡がとれなくなってしまうケースが、いくらでもあるのだ。
距離的に離れているために、会いたいときに会えない、ことも一つの原因であろう。
しかし、もともと”ともだち”としての、肝心な土台がないのだ。土台のないところに、”ともだち”を構築しようとしても、所詮、それは崩壊してしまうのだ。

土台とは何か・・・それは、人間育成・人格育成に寄与した共通の喜怒哀楽の感情であり、成長期に舐めた共通の辛苦である。つまり、共通の基盤が必要なのである。
それは、どこの国でも、誰でも同じではないか、と考えることはできる。
だが、韓国は違った意味で、民族の連帯意識が強烈である。それは、韓国が、今もなお「戦時下」に置かれているからである。
「戦時下」という土台は、日韓の民族を乗り越えて、”ともだち”を結ぶには、あまりにも強大な壁である。

”ともだち”の領域に入らないまでも、親しい”知り合い”として、長いつきあいができる道はあろう。
それを実現するカギは、「無心」だろうか・・・・・。