韓国人の心に潜む不思議

親切と嘘

   

異国を旅行すると、地理がわからないことがたくさんある。汽車や電車、バスなど交通機関の乗り方、目的地への道路の行き方、などなど、枚挙に暇がない。
事前に、いくら詳細に調査していっても、現実は、違った世界であることが多い。
そんなとき、どうするか・・・・現地の人に訊ねて、教えてもらうことになるであろう。

韓国とて例外ではない。地図を片手に知らない土地で、目的地を探すのは、いつも、容易ではない。そんなとき、たまたま近くにいる人に訊ねることにしている。
お店の従業員であったり、道端に座っている地元の老人であったり、道で行き交う若者であったり、・・・いろいろである。
かろうじて意思疎通ができる程度の韓国語の実力であるから、現地の人たちの方言まじりの言葉で、会話するのは容易ではない。
特にお年寄りは苦手である。古い言葉が出てくると、ほとんど理解に苦しむ。
しかし、自信をもって、会話に誤解や聞き間違いがないものと、断言してよい。

釜山のある場所にいくために、あらかじめインターネットで調べた資料をもとに、地下鉄を下りた。駅から徒歩10分とあるので、地図に従って駅から歩くことにした。しかし、しばらく歩いても、目的地らしい標識は見当たらない。
仕方なく、通りすがりの若者に訊ねた。
「この先の信号を左に曲がると、すぐ右手にありますよ」と教えてくれた。わしたは、教えてもらった道順を復唱して、お礼を言って、歩いた。しかし、信号を左に曲がっても、それらしきものは、右手に現れてこない。
行ったり来たりしつつ、最後に、路傍で掃除をしていた地元の人らしいおばあさんに訊ねた。しばらく考えていたが、「ここではないよ。この先の信号を右にまがって、ずっと行き、二つ目の信号を左に曲がって・・・・」と説明してくれる。 何のことはない、今来た道を、また戻ることになる。何が、本当なのかわからないが、とにかく、行ってみる。
しかし、やっぱり、目的地ではない。
まいったなぁ・・と思いつつ、再度、人に訊ねる。そうすると、やっぱり、最初におしえてもらった道が正しいらしい。信号を左に曲がると、さっきのおばあさんが、掃除を続けていた。
そして、その少し先の左手に、目的地らしいものが見えた。
最初に、教わった時、右手にある、とおしえてもらったから、見落としたものである。
腹が立ったので、掃除をしていたおばあさんに、失礼と思いつつ、
「할머니, 거짓말쟁이! 」(おばあさんの嘘つき!)と大声で怒鳴って、先を急いだ。

ソウルで、ある小さな施設博物館を訪ねた。
インターネットで調べた地図をもとに、地下鉄の駅を降りて、歩くことにした。
道が複雑に入り組んでいて、とてもわかりにくい。とうとう、道に迷って、自分がどこにいるかさえ、わからなくなってしまった。
近くのお店に入って、店員に場所を訊いた。親切に説明してくれた。しっかりと復唱して、紙に書いて、その通りに歩いた。しかし、どうも、おかしい。目的の場所はないし、道路も、説明してくれたものとは、少し違う。
再び、道に迷ってしまった。
たまたま,すぐそばで道路に車を駐車しようとしていた若い女性がいた。その人に訊ねた。
しかし、地元の人ではないので、ここの地理はよくわからない、と言う。しかし、ぼくが差し出した資料を見て、携帯電話で、目的の博物館に電話してくれた。そして、位置を確認すると、「車に乗れ」と言う。博物館まで、送ってくれる、と言うのだ。
博物館の説明によると、車で2~3分らしい。彼女は、電話で聞いた通りに進むが、やっぱり、みつからない。
再び、電話で確認してくれた。道が違っているらしい。最初に説明してくれたのが、間違っていたのだ。 「こういうことは、よくあるんですよ」と彼女は、平然としている。
再度、電話で確認して、ようやく、その小さな博物館のビルに辿り着いた。
訊けば、彼女は、仕事の途中で、出かけて来ているらしい。遅刻してしまったようなので、丁寧に、お詫びして、お礼を言って、別れた。

韓国の人たちは、総じて親切だ。親切でなければならない、という強い気持ちが働いて、自分の能力を超えた親切を演出することになる。
正確な道は知らなくても、そこは、知ったふりをして、”親切に”教えなければならない、という義務感が作用する。
だから、本質的な悪意はなくても、結果的に、うろ覚えから、「嘘」を言うことになってしまう。
こうなると、もはや、「親切」ではなくなってしまうのだが、そんなことには、無頓着である。
われわれ旅行者からみると、一言、「よくは わからないけれど、・・・・」と説明してくれれば、参考資料的な扱いに留めておき、全幅の信頼をおいて苦労する結果にはならないだろう、と思う。
しかし、韓国人にとっては、「知らない」とか、「よくわからない」という言葉は、ある種の”恥”に匹敵するようなものらしい。だから、とにかく、尤もらしく答える必要がある、というわけである。
それが、彼らにととって、海外旅行者に対する「親切心」だと勘違いしているのである。
それも、”儒教”の教えのなせるところなのだろうか・・・・・ アメリカ人なら、平気で、「Sorry, I don’t know・・」と言って別れるであろう・・・また、旅行者にとって、その方が、ありがたいことも多い。