韓国の中高生が読む近代小説

그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까

   

この作品は、韓国を代表する女流作家 박완서(朴婉緒)(パク・ワンソ)の自伝的小説である。
自伝小説としての三部作の第一部に相当する作品である。
彼女は、1931年경기도(京畿道)の개성(開城)(ケソン)に近い小さな村里に生まれる。文壇に登場したのは1970年であるが、2011年病気で死去するまで、精力的に執筆活動を続けた。
この「그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까」という小説のタイトルに出てくる”싱아”(シンア)というのは、草の名前であるが、日本語では”スイバ”あるいは”スカンポ”と呼ばれる草である。昔、韓国の田舎の子供たちが遊びながら、野原で、この”싱아”(シンア)を採って、茎を噛んで吸うと、甘い汁が出てくるのだそうである。
この小説の題名は、「こんなにたくさんのスイバを、誰が全部食べたのだろうか」という意味である。

物語は、1931年、作者が誕生したときの生活からはじまる。
この時代の朝鮮半島は、朝鮮王朝から大韓帝国を経て、1910年の「日韓併合条約」によって、いわゆる日本による統治時代、即ち、俗にいう「日帝時代」、あるいは、韓国でいう「일제강점기」(日帝強占期)の時代である。
この後、1945年第二次世界大戦により、日本が敗退し、朝鮮半島は38度線を境にして、南部をアメリカが、北部をロシアが統治することになり、分断されてしまう。
しかし、38度線を境に、常に諍いが絶えず、ついに1950年、”朝鮮戦争”が勃発するのである。いわゆる”육이오(6・25)”(6月25日に勃発した)である。 この戦争は、1953年の休戦まで続くのであるが、物語は、戦争最中の、1951年1・4後退までが描かれている。

物語は、母と、その娘である作者という二代にわたる女性が生き抜いた、日本統治時代と朝鮮戦争時代の社会相、風俗、人心などを背景にして、骨の髄まで絞り出すようにして苦しみながら書かれたものである。
物語の舞台の大半は、作者が生まれた박적골(朴積谷)における学齢期までのことと、その後大学に入学するまでのソウル현저동(峴底洞)での生活が主体である。
박적골(朴積谷)は、38度線の北側にあり、現在は、行って見ることができない。
一方、ソウル현저동(峴底洞)付近は、自伝で登場する姿は見る影もなく、現在は、まったくの別世界が存在している。

この物語は、1930年~1950年における朝鮮半島の庶民生活を語る生きた歴史的遺産であるといってよい。 どの歴史書にも書かれていない、知られざる世界を知ることができる。
それを、同じ民族同士が憎みあい、隣人をも告発した、恐ろしく重ぐるしい時代の、母と娘、二代の記録として残してくれたのである。
読んでいて、ある種、嫌悪感に襲われることすらある。しかし、確実に、人間の強さが伝わってくる。何としてでも、生き抜かなければならない、という強い生命力が伝わってくる。
彼女は、幼くして父を病気で失い、母をはじめ、兄弟、祖父母、叔父など大家族の中で、生活してきた。
最も強い影響を与えたのは母である。
著者は、同じ女性である母との葛藤を繰り返しながら、成長してきた。意地っ張りで虚栄心に富み、強い生活力をもつ母の後姿を見ながら、刻々と変化していく困難な時代を乗り切っていく。
古い慣習の中で生きながら、一方で何か新しさに対する強烈な渇望をもった母から、「新女性を生きよ」という意思を受け、それを実現してきたのである。

この小説の日本語訳は、1999年に、「梨の木舎」から、朴福美(パク・ホンミ)氏の翻訳で、「新女性を生きよ」という題名で出版されている。日本語訳の本のタイトルは、原文のそれとはほど遠いが、この言葉は、母からのメッセージである。
訳文は、日本語としては、いささか違和感があることが否めないが、しかし一方、原文に忠実である。
原文の韓国語は、方言や老人の言葉もあって、結構、難かしいと思われる部分も多いが、ぜひ、韓国語で読むことをお勧めしたい。 訳文にはない、強い感動を覚える。

[싱아(シンア)の花]