心に残る名所

韓半島の三大楼閣

   
朝鮮時代から、韓半島には3つのすばらしい楼閣があり、現在でも三大楼閣として手厚く保護されている。それらは、次の3つである。

*촉석루(晋州 轟石楼)
*영남루(密陽 嶺南楼)
*부벽루(平壌 浮碧楼)

これらのうち、부벽루(平壌 浮碧楼)だけは、朝鮮民主主義人民共和国、すなわち北朝鮮の平壌にある楼閣である。
楼閣というのは、大きな川辺に接する小高い山の中腹など、すぐれた展望がみられる位置に建設され、青い水や山々の眺望を楽しみながら、高官同志が酒を酌み交わしたり、要人を接待するために使われた場所であると言われている。
これらの各楼閣を簡単に紹介しよう。


촉석루(晋州 轟石楼)

[촉석루(晋州 轟石楼)]
촉석루(晋州 轟石楼)は、韓国の경상남도( 慶尚南道)진주시(晋州市)に位置し、남강(南江)に面した崖の上に聳えている楼閣である。
高麗時代の1241年、김충광(金忠光)などの手で、創建されたと伝えられている。
別称、장원루(壯元樓)とも呼ばれていたが、正式には촉석루(轟石楼)と命名されている。名前の由来は諸説ある。

촉석루(晋州 轟石楼)は、高麗고종(高宗)28年(1241年)に創建後、幾度か重建・重修が繰り返されてきた。そして、임진왜랑(壬辰倭乱)で焼失したものを、광해군(光海君)10年(1618年)に、より勇壮な楼閣に重建し国宝に指定された。しかし、1950年、6. 25동란(朝鮮戦争)で再び焼失してしまった。

1960年、진주고적보존회(晋州古跡保存会)が、市民から募金を集め、現在の楼閣が誕生したものである。
正面5間、側面4間の建物である。
2階に上ると、남강(南江)の眺めがすばらしく、「嶺南第一形勝」(一番美しいという意)という扁額が掲げられている。


영남루(密陽 嶺南楼)

[영남루(密陽 嶺南楼)]
영남루(密陽 嶺南楼)は、韓国경상남도( 慶尚南道)밀양시(密陽市)に位置し、밀양강(密陽江)に面した小高い丘の上に建てられている。

朝鮮時代後期の代表的木造建造物である영남루(嶺南楼)は、もとは신라 경덕왕(新羅 景徳王)(742-765)のとき、영남사(嶺南寺)の付属した楼閣として建築されたものと言われている。
その後、1365年 공민왕(恭愍王)のとき、밀양부사(密陽府使)김주(金湊)によって規模を拡大すべく改修され、更に、1844年、이인재부사(李寅在府使)によって、楼閣部分が現在の姿に改築された。 その美しい建物は、現在、宝物第147号に指定されている。

この楼閣は、いわば3つの建物が一つにつながっており、영남루(嶺南楼)本楼を中心に、左側に능파각(凌波閣)があり、右側に침류각(枕流閣)を、それぞれ両側に従えているのが特徴である。

本楼の二階に上ると、「嶺南第一楼」と書かれた扁額がかけられている。
広くて大きな楼閣は、たくさんの太い丸柱で支えられて、밀양강(密陽川)の絶壁の上に建てられている。
二階からは、川辺の展望がすばらしく、さすがに、韓国一を誇る楼閣に相応しいものである。


부벽루(平壌 浮碧楼)

[부벽루(浮碧楼)]
부벽루(浮碧楼)は、朝鮮民主主義人民共和国の평양시(平壌市)중구역(中区域)の名勝地、금수산(錦繍山)모란봉(牡丹峰)の東、대동강(大同江)청류벽(淸流碧)に立つ楼閣で、韓半島の三大楼閣の一つである。
他の二つは、いずれも現在の韓国にあるが、この부벽루(浮碧楼)だけは、평양시(平壌市)に位置している。
もともと、高句麗時代の393年、仏教寺院영명사(永明寺)の付属建物として建立され、当時は名称も、영명루(永明楼)と呼ばれていた。その後、12世紀になってから、この楼閣が、대동강(大同江)の澄んだ水に浮かぶ楼亭のようだ、という意味で、부벽루(浮碧楼)と呼ばれるようになった。
高句麗時代の建立以来、何度なく、補修と再建を繰り返してきたが、임진왜란(壬辰倭乱)(文禄・慶長の役)で秀吉軍がすっかり焼き払ってしまい、1614年、今日の姿に再建されたものである。

부벽루(浮碧楼)は、正面5間、側面3間の美しい建築物で、この楼閣に上がると、眼下に悠々と流れる대동강(大同江)の水と、その向こうに爽やかに広がる山々との調和がすばらしく、その眺望の見事さは他に並ぶものがない、と言われている。

国宝第17号に指定されていると共に、平壌8景の一つになっている。