朝鮮半島の歴史

朝鮮時代

   
500年にわたる朝鮮王朝の歴史を振り返るとき、韓国では、3つの期間に区切って論じられる。
1392~1506年の100年あまりを前期、1506~1637年の130年間を中期、そして1637~1897年の250年間を後期とする。
日本では、王朝が終焉する1910年までを”李氏朝鮮時代”と呼ぶことが多いが、韓国では、1897年、26代の高宗(고종)のとき王権が失墜し、国名が”朝鮮”から”大韓帝国”(대한제국)と、変わった時点で、”조선시대”(朝鮮時代)の終わりである、と認識されている。
実際の王政終焉は、”大韓帝国”(대한제국)の1910年、27代の純宗隆煕皇帝(순종)のときである。
見方や考えた方は多様であるから、区分の方法や時期にこだわる必要はないと思う。
”朝鮮時代”は、よい意味でも悪い意味でも、儒教に基く統治の時代であり、今日の、韓国に多くの儒教道徳的遺産を残した。

13世紀、高麗(고려)は元の属国から独立しようと企てるが失敗し、政治情勢は混沌とした情勢にあった。
1388年高麗の武将李成桂(이성계)は、遼東征伐を命じられるが、逆にクーデターを起こし、自ら王位を受け継ぎ、1392年、新しい王朝”朝鮮王朝”を樹立し、太祖(태조)となった。
これが、長い朝鮮王朝の出発点である。
李成桂(이성계)は、儒教を崇拝し、高麗の国教であった仏教を排斥する政策を強力に進めと共に、都を漢陽(ソウル)に遷都した。新しい王朝の基盤を強化するために、自らの子孫を後継にする政策をとってきたが、2度にわたる王子の乱を誘発なるなど、ことごとく失敗し、最後には、彼が排斥してきた仏門に帰依することとなる。

3代目、太宗(태종)は、王権を強化し、官僚制の廃止、兵の廃止を断行し、租税制や戸籍制の改革を実施した。多くの改革によって、政治は、著しく安定したものになった。
こうして安定化した中で、登場したのが、4代王世宗(세종)である。世宗(세종)は、学問、軍事、科学、文化など、あらゆる面で、大きな業績を残し、500年の王朝の中で、もっとも安定した時代であった。
訓民正音の編纂を行い現在のハングルの基を築いたことはあまりにも有名な業績である。

世宗(세종)の時代から朱子学(주자학)を国家のイデオロギーとして定着させてきたことにより、成宗(성종)になってからは、朱子学(주자학)を修めた科挙完了である士林派(사림파)が台頭し、政治に登用された。これにより、ある意味で、王朝の統制体制が、一層強化確立されたといってよい。
だが、燕山君(연산군)の失政続きで、これら士林(사림)が東人(동인)と西人(서인)に分かれて朋党政治(붕당정치)を展開することになる。
この後、徐々に細分化した派閥があちこちに台頭し、闘争がはじまる。これにより、政治基盤は次第に弱体化していくことになる。

朝鮮第14代宣宗(선조)のときの1592年、日本の豊臣秀吉は列島統一を成し遂げた後、中国の明に侵攻するため、朝鮮半島に陸路を確保すべく朝鮮に協力を仰ぐが拒絶され、20万の兵力を朝鮮半島に派遣し、壬辰倭乱(임진왜란)(文禄の役)の開戦となる。
秀吉軍は瞬く間に、釜山を攻略し、北に進軍した。
これを見た宣宗(선조)は、ソウルを捨て義州(의주)に逃避してしまい、日本軍は侵攻20日にして、漢陽(ソウル)に無血入城を果たすことができた。
更に平壌(평양)までを簡単に占領することとなった。
しかし、日本水軍が 李舜臣(이순신)によって撃破されると、補給作戦に支障をきたし、動きがとれなくなってしまい、後退を余儀なくされた。
同時に明の援軍が進出し戦線が膠着状態になると、豊臣軍は和議交渉に向けて打開を図ろうとする。しかし、結局和議交渉は失敗に終わる。

その結果、秀吉は1597年再び朝鮮半島に侵攻し、丁酉再乱(정유재란)(慶長の役)の開戦となった。
だが、陸戦においては、朝鮮・明の連合軍の総攻撃で日本軍を追い出し、また海戦においては、数の上では圧倒的優位を誇っていたため、朝鮮水軍を軽く見ていた日本水軍は、復帰した李舜臣(이순신)指揮する朝鮮水軍に完全な敗北を余儀なくされた。
その折、日本側で指揮をとっていた秀吉の健康が損なわれ次第に消極化していく。
戦争は泥沼化していたが、間もなく秀吉の死去により、ようやく、7年に及ぶ戦乱が終結することとなった。

第15代光海君(광해군)が即位すると、日本との2度にわたる戦争の結果、すっかり疲弊した国土を整備するため、士林(사림)政治を排し、王権を強化することに努力した。
しかし、権力回復のために画策を重ねた士林派(사림파)は、海君(광해군)を追い出し、新たに第16代王に、仁祖(인조)を擁立した。
仁祖(인조)は再び明との友好政策を展開するが、これに刺激された清は、1627年、1636年の2度にわたって、朝鮮に侵攻してきて、丁卯胡乱(정묘호란)、丙子胡乱(병자호란)を戦う。
だが、この戦いで、朝鮮は破れ、清に降伏を宣言し、明の朝貢国(ちょうこうこく)時代から、清の朝貢国時代へと移り変わっていくことになる。

こうして、朝鮮は、朋党を中心とした新しい時代に入る。
だが、あまたある党派間の闘争は激しさを増し、ますます分裂・対立を繰り返すこととなった。
1724年即位した第21代英租(영조)は、この対立により生じた象徴的な事件により、生涯に禍根を残すことになる。
それが、「荘献世子事件」(장헌세자)である。王の健康上の理由から、自らの二男荘献世子(장헌세자)に公務を代行させようとするが、これを支持する南人・少論・小北の勢力と、反発する老論の勢力との対立・画策により、荘献世子(장헌세자)は精神的に自失し、大混乱を引き起こす。何も知らずに激怒した王は、荘献世子(장헌세자)を米櫃に軟禁し、餓死させられてしまう。
後に、思悼世子(사도세자)という諱号が贈られるが、王にとっては、悔やみきれない事件であり、荘献世子(장헌세자)の死は、ますます、対立を深めることとなってしまった。
王はこの熾烈な党争をおさえるべく、要職につくものを各党派からバランスよく登用することで、政争を鎮圧し、王権を強化する政策をとった。
紆余曲折は見られたものの、この政策により、政権強化は成功し、表向き政治は安定することになった。
しかし、裏側では、依然として、党派の分裂・混乱は続いており、英租(영조)の晩年以降、再び、火を噴くことになる。
1776年即位した第22代正祖(정조)の時代に入ると、王は、朝廷から反対勢力である老論を徹底排除し、側近だけで固める政策をとった。
だが、裏側では党派の争いが、日々、続いていた。
更に18世紀末になると、中国からカトリック教が伝来し、それが、儒教の教えと相容れないとして、カトリック弾圧事件が起きる。カトリック弾圧は、これ以降も発生するのだが、この宗教問題が、更なる党派の対立を助長することとなった。
英租(영조)、正祖(정조)と続いた長い時代に、表向き政治的にも文化的にも安定しているかに見えた朋党政治(봉당정치)であるが、実は、すでに限界に達し、行き詰まりを見せ、崩壊寸前にあった。

1800年、正祖(정조)が突如死去すると、まだ幼い純祖(정조)が、第23代王として即位する。
このときから、約60年間にわたり、安東金(안동김)氏家の勢道政治(세도정치)がはじまった。
正祖(정조)の後、次々と幼い王たちが即位し、朋党政治(봉당정치)は、完全に崩壊し、絶対的な王権が消え、特定の一族が権力を独占することになった。
この勢道政治(세도정치)の60年間は、朝鮮時代の中で、腐敗の極みであった。
突然の正祖(정조)の死と、それと共にはじまった勢道政治(세도정치)は、結局のところ朝鮮時代の終焉を促進し、滅亡の最大の原因となったのである。
安東金(안동김)氏家による勢道政治(세도정치)も、第25代哲宗(철종)の時代にピークを迎えると、次第に弱体を辿ることとなった。
第26代は高宗(고종)であるが、父は、実は、王族で興宣大院君(흥선 대원군)李昰応(이하응)であり、画策して、孝明世子(효명세자)の養子にし、そのまま11才で即位させた。そして、李昰応(이하응)は摂政の地位につき、強大な権力を行使して諸策を展開した。
最大の狙いは勢道政治(세도정치)を打破し、失墜した朝廷王権の強化・復活をはかり、国家の危機を克服することにあった。
安東金(안동김)一派の要人を追放し、汚職官僚を厳しく処罰し、党派を超えて人材を登用した。 不評であった税制を改革し、両班にも課税して平民の税負担を軽減した。
対外的には、徹底した鎖国政策をとり、たとえば、カトリックへの強力な弾圧を実施した。
だが、この鎖国政策に対して、フランス、アメリカ、日本など、諸外国から、開国要求が激しさを加えてきた。

1866年、高宗(고종)の王妃閔妃(민비)が中心となって、興宣大院君(흥선 대원군)の下野運動を展開する。
そして、1873年、クーデターが成功して、高宗が親政を宣布、10年間にわたり政権を握っていた興宣大院君(흥선 대원군)が失脚し、閔氏(민씨)政権が樹立した。
これによって、長年続けてきた鎖国の対外政策が解放され、日本、米国などに門戸を開放していくことになる。
1875年、日本の軍艦、雲揚号(운요호)が江華島(강화도)に入り戦闘をおこし、いわゆる江華島雲揚号事件が勃発する。 この事件は、翌1876年、江華島条約を締結して門戸が開放されることによって終結する。
これを契機に、朝鮮は、釜山(부산)、仁川(인천)、元山(원산)の港を次々開放していく。

一方、閔氏(민씨)政策は、必ずしも、国民に歓迎されたものではなく、むしろ重税や不正の横行、開国による外国資本の流入などにより、民衆の生活は苦しく、とうとう、農民たちの内乱が引き起こされた。
1894年、いわゆる、東学農民運動(동학농민운동)ないしは甲午農民戦争(갑오농민운동)と呼ばれるものである。
おどろいた閔氏(민씨)政権は、清に援軍を要請、朝鮮の覇権を狙っていた清はただちに要請に応じて軍を派遣する。それを見た日本も、すぐに派兵し漢城(ソウル)付近に布陣して、両者にらみ合いの状態が続くことになる。
この状態の中で、農民たちの内乱は、一応終息を見るが、日清両軍は、朝鮮の撤兵要請に応ぜず、対峙が続いていた。
日本は、開化派(개화파)と呼ばれる政治グループ独立党(독립당)を援助し、クーデターを起こさせ、閔氏政権を追放することに成功する。
そして、この親日政党から、日本が清国軍を撤兵させるよう依頼させ、1894年日清戦争(청일전쟁)が勃発する。この戦争は、翌年、日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結する。
この条約の中で、日本は清に対し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、清の朝貢国から抜け出した。
だが、ロシアは、日本の満州侵略を危惧し、ドイツ、フランスを引き込んで、いわゆる三国干渉を受けることにな。
朝鮮は、清から脱却したものの、日本の影響力が強まり、一方、三国干渉に屈することにより政治的・軍事的存在感は低下していった。
1895年、景福宫(경복궁)で、王妃明成皇后(명성태황후)閔氏(민씨)が日本によって暗殺されるという乙未事变(을미사변)が発生すると、高宗(고종)は脅威を感じ、ロシア帝国保護下に避難する。
1897年、高宗(고종)は徳寿宮(덕수궁)に換宮し、ここに長い朝鮮時代が終焉し、朝鮮半島最後の専制君主国家、大韓帝国(대한제국)が誕生することとなった。
清の冊封の象徴であった迎恩門(영은문)を倒し、新たに独立門(독립문)を立てて独立を記念した。

その後、日本は、ロシアが満州をから朝鮮半島に南下して半島支配をすることを防止し、また、ロシアは、満州・朝鮮における権益の確保を目的として、朝鮮半島を舞台とした日露戦争が勃発する。
相当、かなりの疲弊を伴うが、終始優勢を保っていた日本が、これ以上の戦争は得策でない、と判断し、1905年、アメリカに仲介を依頼し、ポーツマスにおいて講和会議に臨み、ポーツマス条約に調印して、終戦となった。

日露戦争において日本が勝利したことにより、大韓帝国は1905年、アメリカ、イギリス、ロシアにより、相次いで、日本の韓国に対する排他的指導権が承認され、日本の保護国となり、外交権が接収されることとなった。
そして、日韓交渉条約が締結される。
1910年、「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)が締結され、大韓帝国は滅亡し、日本に併合されることとなった。
500年にわたって続いた朝鮮王朝の終焉であり、長い王政の終焉であった。
第27代純宗(순종)が最後の王であった。