朝鮮半島の歴史

韓国の歴史年表概略

   
古朝鮮時代
 
   朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)(단군)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)(단군)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)(기자)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)(위만)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。
檀君(タングン)(단군)と箕子(キジャ)(기자)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。

*BC2333年 檀君(タングン)(단군)が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮(조선)とする。この時代を檀君(タングン)(단군)朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。
その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。

*BC1122年 中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)(기자)が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)(기자)朝鮮を建国する。首都は平壌である。
箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。

*BC195年 中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。
もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、BC108年、遠征により滅ぼされることになった。
衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。

*BC108年 衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。
この直轄支配は、約400年続いた。
三国時代
 
*BC100年頃  中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。
三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。

馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。
弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。
辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。

*BC57年  辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)(혁거세)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。

*BC37年  一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。

*BC18年  高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。

*AD313年 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。

*AD660年 百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。

*AD668年 高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。

*AD676年 新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。
統一新羅時代
 
*698年    中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。
渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。

*9~10世紀頃 繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。
9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。
そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。
即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。

*936年    こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。
王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。
高麗時代
 
*993~1019年  926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。
だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。

*1231年  北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。 徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。
*1274~1281年 一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。
このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。

*1388年  14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。
一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。
やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。
朝鮮時代
 
*1392年  高麗(고려)の武将、李成桂(이성계)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(조선)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。

*1443年  第四代国王、世宗(세종)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。
この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。

*1592年  この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。 当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。
やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。
1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。
この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。

*1609年  その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。

*17世紀末  党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。
現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。

*1763年  朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。

*18世紀末  中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。
このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。

*1876年  王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。
しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。 これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。

*1894年  甲午農民戦争(東学党の乱)が発生する。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。この戦争は、政府の要請による清の援軍と日本の介入とにより、官・農民間の和議が成立して終結する。
しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。この戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。

*1897年  一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。
朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。
1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。
*1904年  日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。
しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(안중근)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。
*1910年  日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。
日帝時代
 
*1910年  大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、植民地時代のスタートであり、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。

*1919年  こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。
この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。
しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩(이승만)で、以降、最後の第13代金丸(김구)まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。

*1945年  第二次世界大戦終戦により、日本による朝鮮半島の実効支配が終了する。これにより、朝鮮半島は解放された。
現代
 
*1945年 第二次世界大戦での日本の敗戦により、朝鮮半島は解放され、かわって米ソ両大国が進駐し、38度線を境に国土が分断されることになった。

*1948年 8月、李承晩(이승만)が大韓民国(韓国)の成立を宣言、これに対抗して9月には、金日成(김일성)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。
間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。

*1950年 米国が自らの国防政策における太平洋地域における防衛ラインに韓国を含めなかったことが、北朝鮮の誤解を招き、北朝鮮は、ソ連のスターリン、中国毛沢東の合意をとりつけて、38度線を突破、韓国への侵攻を決行した。朝鮮戦争勃発である。
劣勢に立たされていた韓国であったが、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功し、大規模な反攻で首都ソウルを奪還すると、戦闘は膠着状態に陥る。
1951年、ソ連の提案で、板門店で休戦協定が締結され、双方多大な犠牲を払った3年間にわたる戦争が休戦を迎えることになった。だが、現在でも未だに戦争中であり、それが休戦しているに過ぎない、という状態は、依然として継続しているのである。

*1965年 日韓基本条約が締結され、ようやく、韓国と日本との国交が回復し、韓国を朝鮮半島の唯一の合法的政府とした。

*1970年代 韓国の経済力が伸長し、このことが北朝鮮の危機感を増大させ、日本人拉致問題をはじめ、多くの問題が発生する。しかし、今日に至るまで、何らの解決をみないままである。