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표충사(表忠寺)
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仏教と儒教とが融合した名寺・・・・
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경상남도(慶尚南道)の北東部、ちょうど、경상북도(慶尚北道)に接して、밀양시(密陽市)という小さな都市がある。人口12万人ほどの市である。
韓国の三大アリランの一つ、밀양 아리랑(密陽アリラン)発祥の地として有名である。 경부선(京釜線)が通っていて、在来の새아을호(セマウル号)はもとより、KTXも通っている交通の便がよい都市である。 市の中心部から東に20kmほどいったところに、新羅時代から伝わる古刹、표충사(表忠寺)というお寺がある。 バスで40〜50分程度、タクシーでも30分ほどかかる位置にあるので、やや不便な場所である。 帰路のことを考えると、タクシーで行って、そのまま、寺の駐車場に待っていてもらうのがようのではないかと思う。うっかりすると、帰りの足がなくなってしまう恐れがある。山の中のこととて、万全の準備をしておくにこしたことはない。 この표충사(表忠寺)は、新羅時代から幾多の変遷を経て、今日に至っている名刹である。 신라무열왕(新羅武烈王)元年(654年)、원효대사(元曉大師)が三国統一を祈願して、ここに庵を建て、죽림사(竹林寺)と名付けたのがはじまりである、と言われている。 その後、흥덕왕(興コ王)4年(829年)、インドの僧侶황면선사(黄面禪師)が、東方の秀麗な自然を探しているうちに、この地の재약산(載薬山)の오색서운(五色瑞雲)を見て、ここに삼층석탑(三重石塔)を建て、석가여래 진신사리(釈迦如来眞身舍利)を奉安した。 当時、흥덕왕(興コ王)の第三子の王子が病気で苦しんでおり、霊山薬水を探しまわっているうち、禪師は、ここ죽림사(竹林寺)に泊まることになった。 そして、황면선사(黄面禪師)の法力で죽림사(竹林寺)の薬水を飲むと、王子の病はたちまち全快して、흥덕왕(興コ王)は大変感動して、このお寺を拡張し、名前を영정사(霊井寺)と命名した。 その後高麗時代に入って、일연국사(千禧国師)がここに泊まって、有名な삼국유사(三国遺事)を完成させたと言われている。 また、충렬왕(忠烈王)がここを訪れ、さすがに天下の名山だと感心し、일국지명산(一国之名山)、동방제일선찰(東方第一の禅刹)と称えたそうである。 新羅から高麗にかけて、보우국사(普佑国師)、일연선사(一然禪師)、천희국사(千禧国師)など多くの高僧たちがここに泊まり、大いに名声が高まっていった。 조선현종왕(朝鮮憲宗王)の1839年、임진왜란(文禄・慶長の役)の際義僧大将であった서산(西山), 사명(四溟), 기허(騎虚)の3大師を祀る표충서원(表忠書院)をお寺の中に創り、寺の名前が표충사(表忠寺)と呼ばれるようになった。
  タクシーが山の中を走っていると、やがて突然、大きな三門が目に飛び込んでくる。 これが、표충사(表忠寺)の일주문(一柱門)である。 ここで、タクシーを止めてもらって、写真撮影をしたあと、車は、更にこの일주문(一柱門)の右手の道なき石ころ道を進んでいく。 ほどなく、表忠寺の駐車場に到着である。 タクシーには、この駐車場で待っていてもらい、約3時間ほどのお寺の見学に入る。 広い寺なので、まず、伽藍の配置図を示しておきたい。
일주문(一柱門)からまっすぐ2〜3分歩いたところ、即ち駐車場のすぐ脇にあって、最初に、通るのが、수충루(酬忠楼)である(写真 左)。 名称が示す通り、”門”というより、”楼閣”であり、不思議な構造である。 この門は、書院正門形態の楼閣であり、いわば儒教的空間が寺の境内に同居しているという、極めて独特な伽藍構造をもっている。
수충루(酬忠楼)をぬけて、まっすぐに歩いて行き、石の階段を上ると、そこに、사천왕문(四天王門)がある(写真 右)。 門に向って右側で守っているのが、북방다운천왕(北方多聞天王)(写真下 右左)、そして동방지국천왕(東方持国天王)(写真下 右右)である。 また、門の左側で守っているのが、남방증장천왕(南方増長天王)(写真下 左左)、と、 서방광목천왕(西方廣目天王)(写真下 左右)である。
言うまでもないことであるが、お寺の사천왕문(四天王門)を通ってはじめて、仏様の世界に入ることが可能となるのである。
사천왕문(四天王門)を入ると、すぐ眼の前に、표충사 삼층석탑(表忠寺 三層石塔)が見える(写真 右)。 統一新羅時代に建立されたものと推定され、高さ7.7mの三層石塔である。 基台が単層であることや屋根の構造から、統一新羅時代後期の作であろうと考えられている。 1995年、解体補修を行った際、부처님 진신사리(佛真身舍利) をはじめ、幾多の貴重な出土品があり、유물관(遺物館)で展示されている。 この石塔は、宝物第467号に指定されている。
삼층석탑(三層石塔)のすぐ横に、표충사 석등(表忠寺 石燈)がある(写真 左)。 単に暗い境内を照らす目的のみならず、仏様の教えの真理を照らし出し、悟りの道に導く意味を持っている。 石の彫刻手法や規模などから見ると、統一新羅末期か高麗初期の作だろう、と推定される。 慶尚南道の有形文化財第14号に指定されている。
삼층석탑(三層石塔)と석등(石燈)とが並び立つ場所から、やや左手前方に、영정약수(霊井薬水)がある(写真 右)。 これには、新羅時代から伝わる薬水の伝説がある。 新羅の흥덕왕(興コ王)4年(829年)、第三子の王子が病気で苦しんでいたため、名医・名薬を探しもめていた。 このとき、황면선사(黄面禪師)の噂を聞きつけ、죽림사(竹林寺)を訪れ、薬水を飲むと、王子の病気は、忽ちにして、全快したのである。 흥덕왕(興コ王)は大変感動して、ここに塔を建て、寺を拡張し、名称を영정사(霊井寺)と命名した、と言われている。 ぜひ、ここで、この薬水を飲んで行く、とよい。
영정약수(霊井薬水)から、ずっと左手奥に、응진전(應眞殿)がある(写真 左)。 お釈迦様の数多くの弟子たちのうち、すぐれた上首の弟子たち16人、すなわち16나한(羅漢)を祀っている法堂である。
응진전(應眞殿)の手前の伽藍は、팔상전(八相殿)である(写真 右)。 팔상전(八相殿)というのは、お釈迦様の生涯を8つの姿にわけて表現した탱화(幀画)と、존상(尊像)とを祀った法堂である。 팔상(八相)というのは、하천(下天)、탁태(託胎)、강탄(降誕)、출가(出家)、항마(降魔)、성도(成道)、전법륜(轉法輪)、입열반(入涅槃)で構成されたものである。 この팔상전(八相殿)は、慶尚南道の文化財資料第141号に指定されている。
팔상전(八相殿)の先、左手奥にあるのが、この寺の中心的存在である대광전(大光殿)である(写真 左左)。 朝鮮時代後期に建造されたものと考えられているが、火災で焼失し、1929年に重建されたものである。 間口5間、奥行3間の法堂の中には、3体の仏様が奉安されている(写真 上右)。 석가모니불(釈迦牟尼佛)を中心にして、東側には、약사불(薬師佛)、そして西側には、아미타불(阿弥陀佛)である。 慶尚南道有形文化財第131号に指定されている。
대광전(大光殿)と팔상전(八相殿)の間の隙間から、奥の方を見やると、高台の上の方に小さな伽藍が見える。これが산신각(山神閣)である(写真 右)。 写真に見られるように、実は、小さな伽藍が二つつながっている。右側に見えるのは독성전(獨聖殿)といって、「智」を備えた나반존자 (那畔尊者)たる 독성(獨聖)を祀った殿閣であり、左側に見えるのは산련각(山霊閣)という扁額が掲げられているが、これがいわゆる산신각(山神閣)である。
寺院の一番奥に位置するのは、관음전(観音殿)である(写真 左左)。 中には、千個の手と千個の目をもつことを象徴する、42本の手をもつ千手千眼観世音菩薩が奉安されている(写真 左右)。 42手には、さまざまなものを持っている。
관음전(観音殿)の右にあるのは、명부전(冥府殿)である(写真 右)。 ここには시왕(十王)がいて、地獄に落ちた人たちを救い、新しく生まれ変わる世界を決める審判官の役割を果たしている。 そのため別名、지장전(地獄殿)とも、また시왕전(十王殿)とも、更には、現世と来世と結ぶという意味から쌍세전(雙世殿)とも言われている。 慶尚南道文化財資料第143号に指定されている。
ちょうど대광전(大光殿)と向かい合う反対側に、この우화루(雨花楼)がある(写真 左)。 正面7間、側面2間の建物で、もともと屋外の座禅場所として使われたところである。
우화루(雨花楼)の横に、やはり대광전(大光殿)と向かい合う形で、법종루(梵鐘楼)がある(写真 右)。 ここには、법전(法鐘)をはじめ、법고(法鼓)、목어(木魚)、それに운판(雲版)という仏教の법전사물(佛殿四物)を備えている。
대광전(大光殿)の北西部、ちょうど만일루(萬日楼)の横に、영각(影閣)がある(写真 左)。 正面5間、奥行き2間の建物である。 内部には、阿弥陀後拂幀画と共に、全部で22点にのぼる歴代僧侶たちの影像が奉安されている。 いずれも、慶尚南道有形文化財第2678号に指定されている。
영각(影閣)の奥には、칠성각(七星閣)がひっそりと建っている(写真 右)。 칠성각(七星閣)というのは韓国の寺に特有の伽藍で、長寿と、伽藍の加護の役割を担う七元星君を祀る伽藍である。
入口近く、수충루(酬忠楼)の左手奥に見えるのは、표충사당(表忠祠堂)である(写真 左左)。 この中には、서산(西山), 사명(四溟), 기허(騎虚)の3大師の眞影を奉安している(写真 左右は사명대사(四溟大師)の眞影)。 毎年3月と9月には、ここで仏教と儒教とが一緒になって伝統儀式が行われている。
표충사당(表忠祠堂)に向かって左手にあるのが、표충서원(表忠書院)である(写真 左)。 この建物は、元来、임진왜란(壬辰倭乱)のとき、大きな功績を立てた서산(西山), 사명(四溟), 기허(騎虚)の3大師の忠誠を追悼するために建立されたものである。 元は、무안면(武安面)の중산리(中山里)삼강동(三鋼洞)という場所に、표충사(表忠祠)という사당(祠堂)が建立されていた。조선 헌종(朝鮮王朝 憲宗)5年(1839年)に、これを当時영정사(霊井寺)という名称であった 現在の地に移して、표충서원(表忠書院)という扁額を掲げたのである。 このときから、寺の名称が、표충사(表忠寺)と改められた。 書院というのは、伝統的な儒教の私立教育機関であり、大儒教者である先賢を祀っているところである。 そのため、この書院も建物だけではなく、祭礼の手続きも、一般の書院と同じだったと言われている。 しかし、その後、書院撤廃命があったり火災があったりして、建物が破壊されたり、焼失したりし、幾多の変遷を経て、現在では、かつての姿を見ることはできない。 だが、この書院は、朝鮮王朝以来の、儒教と仏教との関係を示す、真に特異な事例といわざるを得ない貴重な存在である。
표충서원(表忠書院)の向かいには、유물관(遺物館)がある(写真 右)。 표충사(表忠寺)は、임진왜란(壬辰倭乱)のとき大活躍をした사명대사(四溟大師)と深い関連がある寺である。 したがって、사명대사(四溟大師)に関連した遺物79点が所蔵されている。 これらは、임진왜란(壬辰倭乱)における僧兵たちの活躍はもちろんのこと、その後の日本との使節団の役割を見ることができるという点でも、学術的に重要な価値をもった資料である。
수충루(酬忠楼)のすぐ左手にあるのが、가람각(伽藍閣)である(写真 左)。 死者の영가(霊駕)が境内に入る直前に、しばし留まり祀られるところである。 正面・奥行とも1間の、小さな規模の建物であるが、他の寺では、滅多に見ることができない特徴的なものである。 この中には、나무가람수호신위(南無伽藍守護神位)という목패(木牌)が奉安されている。
표충사당(表忠祠堂)と向かい合う位置に、설법전(説法殿)がある(写真 右)。 現在は、사명대사(四溟大師)の護国思想を宣揚するために法会を開き、その精神を伝承するのに使用されている。 扁額には、무설전(無説殿)、의중당(義重堂)、そして대흥불법도량(大興佛法道場)と書かれたものが掲げられている。 更に内部には、금동관음보살좌상(金銅観音菩薩坐像)が奉安されている。 こうして、不思議な寺をくまなく見学してまわると、표충사(表忠寺)が持つ、儒教と仏教とが融合したものの中に潜む精神が、ほんのりと見えてくるような気がする。 밀양시(密陽市)は、사명대사(四溟大師)の故郷である。 밀양시(密陽市)が生んだ偉大な僧侶の魂は、いつまでも、この国を護ってくれるに違いないであろう。 暮色ただよう山懐で、ふたたび、タクシーに乗り、밀양역(密陽駅)へと向かった。 KTXで부산(釜山)に行こうか・・・・・
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