임진왜란(文禄・慶長の役)
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朝鮮王朝を揺るがした秀吉の野望・・・・
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豊臣秀吉の明征服野望のためにくりひろげられた文禄・慶長の役、途上の朝鮮半島が主戦場になり、結果的に、日本にとっても、朝鮮にとっても、明にとっても、疲弊・廃頽・破壊以外の何物をももたらすことがなかった無残な戦争であった。
それは、二回にわたる戦いとなり、まず第一回目は、文禄元年(1592年)にはじまった「文禄の役」。韓国では、この年の干支をとって、임진왜란(壬辰倭乱)と呼んでいる。 この戦いは、翌、文禄2年(1593年)、一旦休戦した。 しかし、和平交渉の決裂から、二回目の戦火をまみえることとなる。 これが、慶長2年(1597年)にはじまった「慶長の役」。韓国では、정유왜란(丁酉倭乱)または、정융재란(丁酉再乱)と呼んでいる。 この戦いは、秀吉の死を受けて、慶長3年(1598年)、日本軍の撤退をもって終結した。 1582年、本能寺の変で織田信長が倒れた後、日本を支配した豊臣秀吉(1536~1598年)は、国内の掌握よりも、まず中国の明の征服に意欲を燃やしていた。 しかし、海軍力が貧弱であった秀吉にとって、この野望を実現するためには、朝鮮半島を経て、陸路明に侵攻するしか方法がなかった。 そのため、秀吉は側近の小西行長と対馬の宗義智に命じ、朝鮮王朝を日本に服従させる交渉を行った。 だが、当時、朝鮮王朝は、明の冊封体制下にあったため、この交渉は、決裂した。 そして、1592年、秀吉は、総勢16万人からなる1~9番隊の軍を編成し、順次、朝鮮出兵を強行した。 임진왜란(壬辰倭乱)(文禄の役) その年の旧暦4月、小西行長率いる一番隊の2万弱が、부산(釜山)に上陸する。何の準備もなかった朝鮮王朝は、日本軍の火縄銃の部隊に、たった一日で부산진성(釜山鎮城)を明け渡すことになってしまう。 次いで、すぐ近くの동래성(東莱城)を攻略して、부산(釜山)を完全に手中におさめると、ここに임진왜란(壬辰倭乱)(文禄の役)の火ぶたが切っておとされたのである。 その2週間後、日本軍は、今度は、충주(忠州)に向かう。 朝鮮側は、急遽8000の兵を編成し、迎撃し、いわゆる충주(忠州)・탄금대(弾琴台)の戦いが展開されたが、日本軍の火縄銃による一斉射撃をあびて、むなしく壊滅に追い込まれてしまう。 충주(忠州)での朝鮮大敗を知ると、朝鮮王朝は、首都한성(漢城)を放棄し、평양(平壌)に逃れる。 このため、日本軍は結局無血で한성(漢城)(現・ソウル)を占拠することになった。 その後更に、日本軍の一番隊は、평양(平壌)をも占拠することに成功する。 一方、朝鮮側は、이순신(李舜臣)率いる朝鮮水軍が、日本水軍を撃破し、日本軍は、大打撃を受ける。 その結果、한성(漢城)・평양(平壌)への、海路物資輸送が不可能になり、陸路でも、次第に、各地でゲリラ戦に悩まされ、補給路が寸断されることとなった。 日本軍は、半島南部の支配を固めようと、진주성(晋州城)を包囲するが、攻略に失敗。やむなく、진주성(晋州城)から撤退することとなった。 その後、朝鮮王朝からの要請で援軍を出した明軍により、日本軍はあちこちで苦戦を強いられることになった。 日本軍は、明軍の攻撃を受けて、평양(平壌)を明け渡して한성(漢城)に退却した。 しかし、ここでも、明軍に大敗を喫し、結局、明軍との間で講和が締結された。 秀吉は、明との交渉を有利にするため、진주성(晋州城)への再攻撃を命じた。 これが、第二次진주성(晋州城)の戦いである。 日本軍は、9万余りの兵を集中し攻撃を加え、わずか7000の朝鮮側を撃退すると、진주성(晋州城)の確保に成功した。 こうして、임진왜란(壬辰の乱:文禄の役)は、休戦を迎えることとなった。 정유왜란(丁酉倭乱)(慶長の役) 講和交渉における明の態度は強固で、秀吉を日本国の君主として認めないばかりでなく、半島からの完全撤退を要求し、交渉は決裂した。 そのため、秀吉は再度朝鮮侵略を決意し、1697年、14万余りにのぼる兵力を動員し、부산(釜山)に上陸すると、まず半島南部の支配を目指した。 朝鮮水軍は、임진왜란(壬辰倭乱)(文禄の役)で日本水軍を悩ませた이순신(李舜臣)が失脚したため、すぐに壊滅状態に陥り、日本は、今度は簡単に制海権を握り、半島南部一帯の制圧に成功した。 そして、あちこちに多数の왜성(倭城)と呼ばれる城を構築し、拠点とすると、ただちに 한성(漢城)に向かって突き進んだ。 だが、まもなく、朝鮮水軍では、失脚していた이순신(李舜臣)が復職し、指揮をとることになった。 これを知ると、日本軍は、年内の한성(漢城)攻略を放棄し、ひとまず、各地の왜성(倭城)に撤退することになった。 しかし、年末になって、朝鮮軍は、明軍とともに、総勢6万の兵力で、加藤清正の울산왜성(蔚山倭城)を急襲する。 日本軍は、手薄だったため、一旦は、落城かと思われたものの、年明けには、援軍を得て、かろうじて防衛に成功した。 だが、これによって、日本軍は、強力な明・朝鮮連合軍を目の当たりにして、次第に厭戦気分が広がっていった。 やがて、1598年(慶長3年)9月から10月にかけて、明・朝鮮連合軍は、한성(漢城)周辺に集結し、多数の兵力による強力な部隊を編成すると、4部隊3グループに分かれて、日本軍の拠点である主要왜성(倭城)攻撃のため南進をはじめ、一斉に同時攻撃をしかけてきた。。 それらは、加藤清正の울산왜성(蔚山倭城)、島津義弘の指揮する사천왜성(泗川倭城)、および小西行長の指揮する순천왜성(順天倭城)の3拠点であった。 戦いは、사천왜성(泗川倭城)で明・朝鮮連合軍が大敗を喫した以外は、総じて、一進一退を繰り返していた。 この戦いのさ中の8月、豊臣秀吉は、伏見城で62年の生涯を閉じた。 この事実は、10月になってはじめて、部隊に知らされ、同時に、撤退命令が伝えられた。 しかし、明・朝鮮の強力な水軍に阻まれ、脱出は、困難をきわめた。 このときの戦いで、明・朝鮮の連合軍は이순신(李舜臣)を失うことになる。 11月の末、日本軍の小西行長らが釜山港を撤退することに成功し、ここに、7年間におよんだ임진왜란(文禄・慶長の役)は、日本の敗退で、幕を閉じたのである。 そして、戦いの後に・・・・ 7年間に及ぶ戦いが残したものは、一体、何であったろうか・・・・ 日本にとっても、朝鮮王朝にとっても、そして明にとっても、それは、あらゆる面で多大な損失と荒廃とをもたらし、三者それぞれの政権基盤を弱体化させることになった。 日本では、過大な兵役に伴う疲弊が極度に達して、秀吉体制の崩壊につながった。 戦場となった朝鮮は、兵力の疲弊のみならず、日本軍と明軍の双方の軍兵により、国土に甚大な被害を受け、特に、略奪や暴行が凄惨であった。 明では、軍事支出が原因で国家の財政悪化を招き、急速な弱体化の原因になった、と言われている。 また、韓国では、この임진왜란(文禄・慶長の役)の最中に、朝鮮王朝に不満をもつ民衆による略奪が横行し、それが原因で、多くの文化財が火災にあうなどして、消失している。 たとえば、경복궁(景福宮)、창경궁(昌慶宮)は、日本軍が한성(漢城)を占拠する数日前に、王朝が평양(平壌)に逃亡したため、民衆による略奪後、放火されて焼失してしまった。 また、朝鮮王朝の基本政策である、仏教弾圧・儒教主義により、王朝の手によって、多くの仏教寺院が破壊され、あるいは、焼失されてしまっている。 その数、1万を超えるといわれていた朝鮮の仏教寺院であるが、秀吉が入ったときには、朝鮮半島全体でも、数えるほどしか残っていなかった。 また、おもしろい伝説も、まことしやかに伝えられている。一例としては、진주성(晋州城)に行くと、日本軍が勝利の祝宴をしているとき、논개(論介)という妓生が日本の武将を誘い出し、抱きかかえて남강(南江)から身を投げて殉難した、という伝説に基づく史跡が残されている。 一方、この戦いが、日本と朝鮮との間の、いわば、文化の橋渡しを行っていた事実を無視することはできない。 特筆すべきは、朝鮮の陶工たちによって、青磁、白磁、鉄絵等の技術が日本に伝えられ、これを基にして、日本の陶磁器が隆盛を極めることになった。 たとえば、有田焼は、まさに、朝鮮の陶工によって、はじまった陶器であり、高い技法によって、やがて、欧州に輸出されるようになるのである。 朝鮮にとっては、この戦いを通じて、日本から、唐辛子が、もたらされたことがおもしろいことである。 なぜならば、これによって、韓国の김치(キムチ)に大変革をもたらしたからである。 それまでは、山椒を使って김치(キムチ)を作っていたが、日本から、唐辛子が伝えられると、しばらくしてから、山椒のかわりに唐辛子を使った김치(キムチ)が誕生したのである。 そして、それは、そのまま今日にまで、脈々と生きている。 破滅・荒廃以外の何も残さなかった임진왜란(文禄・慶長の役)であるが、戦いによる人的往来の産物として、文化的なものがもたらされたことは、せめてもの救いであろうか・・・。 400年以上の歳月を経て、それらが、今日なお生きていることは、おもしろいことである。
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