丑の刻参り伝説、鉄輪の井戸。 貴船神社にも由来が残る悲しい女の
そして恐ろしい女の言伝えがあります。丑の刻とは午前一時半から
午前三時半までを指します。丑の刻参りの方法とはどんなものなのか
少し、お話しましょう。貴船神社境内は、現在でも深夜になると漆黒の闇に
包まれ、訪れる人を、拒むかのようです。ではまず、装束ですが
全て白一色です。そして履物は、一枚歯の高下駄を履き、頭には鉄輪
(かなわ)をくくりつけて、そこに三本のろうそくをくくり
火を灯すのです。鉄輪とは、今ではガスコンロの「ごとく」の事で
やかんや、なべを乗せるところです。で、白い帯の結び目から四~五
メートルもの長さに垂れ下がる二本の帯の端が地面に着かないように
走らなければなりません。
まさに、想像するだけでも、おどろおどろした、恐ろしい光景でしょう。
しかも、以上の事を、何度も何度も繰り返すのです。
これはもう、祈りと言うより、呪いです。必ず相手が死ぬとの伝説があります。
由来。
革堂(こうどう)ここには、若い女の幽霊を描いた掛け軸があります。
由来。
六角堂 聖徳太子が建立したと伝えられています。京都の中心部辺りに
あります。天明八年に焼失し、後に再建されました。
これは焼失当時の、土台、礎石です。
由来。
びんつるさん。身体の悪いところや、痛いところがある人は、この
びんつるさんの自分と同じところを擦ると、霊験が現れて
治ると云われています。
御所の鬼門にあたるところです。角を取り去って神猿を安置しています。
この光は、御神光でしょうか…。
神猿です。右を向いています。
平安時代の超人、大陰陽師。安倍晴明公の邸跡とされるところに
建立された神社です。寛弘四年、一千年に、時の帝、一条天皇が創建
されました。陰陽師とは、暦術、占法、そして移り行く星雲を見ては宮中の
変事を予知し遠国の吉凶を判断します。方位方角の善し悪しや、病平癒の
祈願、そして御霊鎮め、火災守護等を行う、当時のハイテクノロジー的
職種でした。後に内裏の中にある陰陽寮という役所の
頭(かみ)になられました。尚、晴明公は、寛弘二年九月二十六日
御年八十五にて、その生涯を終えられました。この時、一条帝より
従四位下に任じられました。
右側の狛犬です。
左側の狛犬です。
参道の途中にあります。右側だけにあります。
ご本殿の鳥居前の狛犬です。左側です。
そして右側の狛犬です。
鳥居の奥に本殿が見えます。
由来。
ご本殿です。
屋根瓦にも晴明桔梗印が見られます。
神幸祭の様子です。毎年9月15日の敬老の日に行われます。
平成15年には、一千年祭が挙行されます。御鎮座一千年のお祭りですね。
堀川通りを練り歩きます。
当時の模様を再現しています。稚児行列の様子。
お母さんと手をつないでいる、ほほえましい光景ですね。
晴明神社、山口宮司です。緋の衣が鮮やかです。
現代の若者には少し、装束が小さいみたいですねぇ。
果たして、この中には、どなたがおられるのでしよう?
大阪市阿倍野区にある、安倍晴明神社です。生誕地との伝承があります。
阿倍野王子神社のすぐ近くに位置します。
生誕伝承地の石碑です。
ここは、一条戻橋です。ここの由来が「出来斎京土産」の中で
次のように記してあります。『平安朝、天台の修験者浄蔵が大峯山に
修行で通っていたころ、漢学者で父の三善清行が死に、この橋で
葬列に出会った時に、橋の上で浄蔵が父の棺に向かって祈念すると
たちまちの事に蘇生し、親子共々、家に戻った事から戻橋と
呼ばれるようになった』と。今も京都では、婚礼の際、決してこの橋を
渡る事はないようです。 戻る‥ですからね。
時代の流れか、ここは車も通りますが、老朽が進んだのと狭くなって
きたので新しく架け直す事になりました。
古くなった旧戻橋は、取り壊されてしまいましたが、その一部分が
ここ、晴明神社に安置されます。何故か?大陰陽師、安倍晴明公が
使役していたとされる式神は、その容貌が恐ろしく、妻が恐れたので
用がない時にはこの橋の下に隠していたと云われていたからです。
また、橋の上では占いが、よく行われていました。橋占いといいました。