人見街道
2001.04.22

 人見街道は武蔵の国の国府として栄えた府中と、ここから杉並の大宮八幡へまっすぐに向かっていた道、それが「大宮路」で、或は府中路と呼ばれていたようですが、先の時代には鎌倉街道の一つとして利用され、いつの頃からか人見街道と呼ばれています。江戸時代は甲州街道の脇往還として、五日市街道や、牟礼街道と同じように武蔵野の新田開発で造られた農作物を新宿の問屋へ運ぶ路も兼ねていたと考えられ、将軍や御三家の鷹場への往復にも使われていたのかと想像しています。

 人見街道の名前は府中の浅間山南一帯に居を構えた武蔵七党の一族、人見氏に由来するとされ、また、一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも言われます。また府中は甲州街道や鎌倉街道の交わる交通の要所でしたので、室町時代の1352年、足利尊氏が新田義興らを攻めたときに、分倍ヶ原や、この人見ヶ原、更に北の金井原で戦ったと云われます。


 
 大宮は、武蔵の国では現在の埼玉県大宮市の氷川神社を初め、秩父の秩父神社も、大宮で、国には、夫々の郡(こおり)ごとにその地域を鎮護する神社をそう呼んでいたようです。大宮路は大和朝廷の時代に国造の任務として国内の主要な宮を廻る仕事もあり、順回路としての街道なのかもしれません。
 
 大宮八幡宮は、我が家から2キロほど北西にあって、私自身の産土神でもあり、何かと縁の深い神社です。子供の頃も、よく虫取りに出かけた記憶があって、参道はしっかりと奥深く続き、拝殿の左には矢場もあって、いつも弓の稽古をしていたのを子供心にその緊張した空気が好きで手捌きをじっと眺めていたものです。今では立派な振武館と呼ぶ弓道場が出来て、伝統ある武芸の奉納会などを開催しています。

 境内を出て、南側に沿った路を西へ進むと、大宮路、またの名を人見街道といいますが、現在の道路表示では浜田山駅入口の前で井の頭通りを越えてから西に人見街道の表示が出て、新宿から方南町を経て八幡までは八幡通りと表示されています。後の行政が変えたことで、本来は昔からの古い道なのです。

 井の頭通りの初期、本来は境浄水場から和田掘り給水所へ送水する水道管を地中に敷設してあるので、保護の目的で車の往来を許可しなかったのですが、やがて交通量が増加し道路として往来できるようになり、当時大蔵大臣であった近衛文麿氏が毎朝利用し、井の頭街道と名付けたのです。

 江戸時代、杉並、三鷹、武蔵野辺りは、御三家の鷹場が入り組んで、その先の新田開発と複雑な関係になっていたのです。余り大きな路ではなく、地図を見ても消えぎえで、自転車で走るには道の狭さで車が気になり、電柱を交わしながらの走り難い路ですが、牟礼で曲がる以外は良く見ると比較的真っ直ぐに通っています。

 高井戸で環八を超えます。初めは何故ここに高井戸があるのか不思議だったのですが、1604年甲州街道の下高井戸宿が整備されたときに、道の拡幅などで、移転を余儀なくされた人の代替地として原野を開発したので、付けた名だそうです。



 井の頭の池の湧水を水源とする神田川を久我山で南に渡り、しばらく行くと大きな欅の下で玉川上水を南に渡ります。
その先の三鷹市の連雀の地名は、江戸時代の天明の火災で焼け出された行商人の町、神田連雀町(現小川町)の人々を、火除け地の代替地として幕府から与えられた地域で、ちなみに連雀とは、行商人の意味があります。

 烏山の寺町も、関東大震災の後、浅草界隈の寺々が疎開した地で、このようにして武蔵野はいつの時代にも下町から移転をして来た集団が住み、徐々に開発が進んできたのです。


 吉宗の時代、新田の開発は、玉川上水の開削と共に幾つもの取水堰が設けられ分水されて、それまで水利の悪かった武蔵野台地に幕府からの融資制度も手伝って、御家人から希望を募り多くの武士や、町人達が入植したのです。この三鷹辺りでは高橋、大久保、などの姓が多く残っています。街道に面する家々は欅を植えた家が多く新緑の季節になって緑がいっそう鮮やかに見えています。

 上連雀八丁目から三百米南、通称、東八道路に面して文部科学省宇宙航空研究所があります。戦前はどのような施設だったのか調べられていませんが、調布飛行場が出来ると周辺に、中島飛行機を始めとし「日本無線」「正田飛行機製作所」「三鷹航空」「中西機械」「東京飛行機」などと、関連工場、工学機械の工場など、航空関係の企業工場が林立した頃、ここに研究所が置かれていたのでしょう。

 
敗戦後の日本はアメリカ軍の監視下に置かれ、航空技術に関する研究を一時根絶やしにされたと聞きます。1953年2月総理府に於いて科学技術行政協議会が開催され航空技術の再建方策を審議し、1955年7月(昭和30年)に航空技術研究所として設立された施設を、昭和38年に宇宙部門を加えて現在の航空宇宙技術研究所と改称されたのです。

 以来、航空機、ジェットエンジン、ロケット等の航空宇宙輸送システムとその周辺技術に関する研究を進め、大型試験設備の整備、拡充に努めるとともに、それらの設備に関わる試験技術の向上を図って関係機関の共用に供し、我が国の航空機とロケットの開発を支えてきたのです。戦後富士重工がジェットプロペラエンジンの国産旅客機YS11機を開発した時も研究所の協力は不可欠だったのです。

 YS11には思い出があり、1968年名古屋の小牧空港に隣接する富士重工に出向き、パイロット訓練用の機首部分をシュミレーターとして制作し、内張りを本来の機体では無い空間に作り上げ、コクピットの擬似空間を作り上げたのです。現在のアミューズメントに使われている六軸ライドマシンと同じような機構です。

 大沢の交差点から南へ八百米行くと国立天文台があります。1878年9月3日、東京大学に、東京天文台の前身である観象台が創設されました(まもなく天象台と名称を変えた)。理学部学生の実習のために、本郷本富士町の文部省御用内に設置されたのです。その後1888年には、海軍水路局が麻布飯倉に設けていて、当時としては日本で最大の天文観測施設を文部省に移管し、それを東京天文台としたのです。なお東京天文台は、関東大震災の翌年(1924年)に、東京都下の三鷹に移転し、現在は国立天文台と改称されています。

 調布飛行場は、元「陸軍調布航空隊調布基地」と言われ、その機能は納入された航空機を陸軍の各基地へ送りだす事と、東京地区の防衛として各監視哨からの情報が麹町の東部軍作室に集められた情報を元に、その戦闘指揮を調布作業室が行っていたそうです。震天征空隊が駐屯し、知覧基地(鹿児島)へ向かう陸軍の震武特攻隊もこの調布飛行場から飛び立っていったのです。

 次第に空襲も激しくなり、19年頃には地下壕の工場がやや離れた八王子の浅川など各地に作られたそうです。昭和20年2月16日から17日には、調布飛行場を見下ろす丘の上の高射砲陣地に、米艦載機による波状攻撃(60機集団)を受け、戦死者4名、負傷者多数を出したのです。

 戦後の昭和33年、私が実際に見たものとして浅間山の山頂には、未だ戦時中の高射砲の台座が残り、近くの松の幹には松根油を採った切り傷が残されていたり、戦闘機を隠す瓶型の掩体壕(あんたいごう)もいくつか畑の中に散在していたのです。飛行場の跡地はしばらくは空き地状態でしたが、東京オリンピックの選手村の為に明治神宮隣のワシントンハイツを移転させ、米軍の基地になっていましたが、その後は再び空き地状態になり、現在では東京スタジアムを中心に子供達のサッカーや野球のグランドなどが出来ています。


 大沢地区にあるICUキャンパス並びに富士重工の広大な敷地はかつての軍需工場、中島飛行機武蔵野工場、三鷹研究所があったのです。
 戦後、米国のキリスト教徒の一部の人々に、広島、長崎への原爆投下に対する後悔の念や日本国民へのつぐないと好意から、日米協力によるキリスト教大学建設事業が具体化され、ニューヨークの日本国際基督教大学財団設立の実現となって募金運動に発展し、呼応するように日本でも全国に募金運動が展開され、企業や団体、多くの人々からの募金が寄せられたのです。

 大学の礎が、多数の国際的な善意によって、敗戦の復興が始まったばかりの混乱の時期に築かれ、1949年、日本、米国、カナダの委員からなる代表者が設立の基本方針を採択し、1953年4月わが国最初の4年制教養学部大学として発足したのです。皮肉にも戦争の原動力にもなった軍需工場跡地に国際基督教大学が建設されたのです。

 これら表向きの事象とは別に、旧中島飛行機武蔵野工場三鷹研究所の建設(1941年)に伴う用地買収の為に、地元住民達は強制的に永年住みなれた土地を破格の安値買い取られ、多大な損害を受けたのです。少しでも反対する地元住民を非国民、逆賊と罵り一般市民からの声を軍部は黙殺し、或いは強行弾圧してきた事は忘れてはなりません。

 元々資源の少ない日本に於いて長期に渡る戦争など続く訳も無いと考えて戦争に消極的であった海軍に比べ、陸軍の無知と野望と蒙昧さから起こされた戦争は、原爆をもって終結をむかえるのです。
野川の河川敷から続く敷地にICUゴルフコースがありましたが、戦後とは言え地元住人から強制的に奪った土地で、ゴルフコースの運営は物議をかもし大学キャンパスを残して昭和50年代以降現在では野川公園になり、市民の憩いの場に開放されています。



 街道に面した三鷹市大沢で野川を渡ると右手に龍源寺があります。幕末の新撰組隊長として有名な近藤勇の墓があり、本堂の左手を裏へ回ると竹林の先に見えてきます。勇の墓は、心無い何者かに度々倒された経緯があり、その都度墓石は小さく角が壊れてしまっています。

 龍源寺から少し西には
生家跡と、学んだ道場跡もあります。武州上石原村(現在地、調布市)の豪農宮川久次郎の三男として生まれ、近くの近藤周助の天然理心流の田舎剣法を学び目録を与えられ、更には近藤の養子になって近藤と改めたのです。土方歳三とは同じ剣法を学んだ歳三の伯父佐藤家が日野でやはり天然理心流の道場を開き、そこに出入りして誼を深めるのです。

 新撰組を結成する発端は浪士清川八郎に騙され、逆の意味で京都に集結したのですが、八郎の意思は続かず、幕府側に就いて隊を結成したのです。あの派手な陣羽織は赤穂浪士の真似とも言われます。

 歴史に名高い鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸へ戻るのですが、勝海舟は、近藤らの過激な存在が官軍との交渉に反って邪魔になると考え、金を渡して甲陽鎮府隊を組織させ、江戸から追い出してしまうのです。
 其処ここで歓待されながら接待を受け、徐々に戦意が薄れる中、甲州街道を西へ進み、いよいよ勝沼で戦うのですが、纏まりの無い隊は、官軍に圧倒されて敗走、近藤は千葉流山で捕らえられて、板橋で処刑されてしまうのです。


 西武是政線を過ぎて桜並木の霊園参道を右手に折れると、多磨霊園の正門が見えてきます。ここは昭和の始めに作られて、彼の辣腕大蔵大臣、加藤是清が眠り、霊園の地図を見ると、各界の著名人がっておられるようです。霊園の西、浅間山の麓に人見神社が祀られていて、人見四郎の墓は、浅間山の南西の裾にあります。 若松町の先で、街道はプッツリと航空自衛隊のフェンスで切れています。このことが原因で一見街道は人見を目的地として続いてきたかに見えるが、そうではないのです。フェンスの中は旧陸軍の燃料倉庫(現在は航空自衛隊通信基地、中学、音楽ホール)があったので、この敷地を確保する為に古くからの街道が切られたのです。

 敗戦後に米軍の通信基地として接収されていた頃は、基地の正門前にGHQ御用達の一大歓楽街が東府中駅まで続き、せっかくの銀杏並木の下は夜のネオンがいかがわしい光を放ち、昼間から屯する米兵の姿に敗戦国の悲哀を感じていました。フェンスの西側には東から続いていた路がどう見ても判らないので、府中市の郷土資料館へ行って古い地図を調べてみれば、やはり燃料倉庫の出来る以前の古い路は今も甲州街道の旧道まで伸びて武蔵国八幡宮手前で交わっています。

 人見街道は、全長で僅か18キロ程の短い街道ですが、武蔵野の風景を僅かながらに残しつつ、航空関連の諸施設が設けられた結果、時代の荒波に揉まれ、現在は東八道路にその使命を託して文字通り細々とした生活道路として利用されています。

 中島飛行機は1917年に創設され、戦時下の各種軍用機生産を担い、当時三菱重工と並んで海軍の「零戦」を作り出したのです。実際は調布基地が陸軍なのでここでゼロ戦は造っていなかったのでしょうか。 零戦は当時危機的状況になりつつあった戦局の中で、海軍が両社に対し設計競争をさせたのです。

 選び抜かれた理学部卒業の若い技術者達に課題を与え、彼等の自由な発想を活用した結果、開発に成功した機種です。その過程に於いて三菱としてはどうしても、自社のエンジンを搭載するよりも競合企業の中島飛行機のエンジンを載せた方が海軍が要求した飛行性能を満たし得ることが判明し、軍へ上申しエンジンは中島、機体は三菱が作成し合体させたのです。

 零戦が戦闘に参加するようになって一時その威力を発揮し、米空軍戦闘機から恐れられ、米空軍は対ゼロ戦用戦闘マニュアルを作成しました。その内容は「ゼロ戦を見つけたならば、直ちにあらゆる方法で逃げよ!」です。 しかし、米軍は南方で不時着したゼロ戦の機体を回収、解体分析し、新たな戦闘機の能力開発と、紙飛行機同然のひ弱な機体を破壊させる機関砲を搭載した事で戦況は一変、後はご存知の通り・・・・

 縄文時代から我が国の民族に受け継がれている感性として、異文化を受け入れる度量が備わっていた民族であると、何かの本で読んだ気がします。なるほど、大陸からの違文化、宗教、に始まり、あらゆる時代に様々な技術を吸収し昇華してきた民族は、この地球上では狭い島国の日本しかなく、そのDNAが脈々とこの民族の血に遺伝しているかのような錯覚を覚えます。

 しかし原子力や宇宙開発を中心とする、20世紀の科学技術は、残念ながら兵器開発によって発展した、と言っても過言ではないでしょう。日本国内においても終戦前にレーダーや、原子物理学など、開発が進められ、ジェットエンジンに至っては、既に試験飛行に成功していたのです。

 断っておきますが間違っても戦争を肯定するつもりは在りません。ゼロ戦の事を書いたのは、昭和の時代に延びようとする多くの若い優秀な頭脳が、戦争と言う極悪非道な世界へ引きずり込まれたのだと言いたいのです。

 欧米の武器輸出国は未だに「死の商人」として国家経営をしていますが、世界は間違っても戦争エネルギーによる技術開発など皆無にすべきだと思います。人見街道の周辺には、大空へ飛び立ちたいと願う人間の夢が今に伝わり、天文台や研究所を残して来たのだと思うと、一人この街道を「大空街道」とでも名を改めて呼びたい気持ちです。