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永年へら鮒釣りを続けていると釣り技の進歩と共に釣り用具も常に進化して10年前の道具は返り見られることもなく、捨て去られるのが運命だが、何故か捨てきれずに、がらくた箱でひっそりと残っている物もあるが、それぞれに愛着があり、その当時の思いでがあります。そんながらくた箱の中味を紹介してみたい。

「我楽苦多」その1「餌箱」



昭和30年代後半までは「マッシュポテト」の全盛時代それ以前はさつま芋を蒸かして裏ごしをして釣り場に持参したとのこと、その頃に使われた餌箱で高級品は本漆塗りで何故か赤と黒の塗りが定番だった。その後麩の餌がふまつげん本舗から発売され餌ボールが出現してこの餌箱は姿を消した。



「我楽苦多」その2「ベンリー」


釣り台の開発される以前は河床に竿掛けと元受けを刺して、折り畳み椅子に座っていたのですが万力と弓の出現で竿掛けから石突きが無くなった、そこで登場したのが商品名「へ゛ンリー」と言ったステレンス製の角棒、これを地面に刺して上のゴムの所に万力を固定した。


万力と弓を取り付けたところ


「我楽苦多」その3「舟用万力」


角度の調節が出来る万力と弓

昭和40年頃佐原水郷はへら鮒釣りのメッカで盛んに舟釣りが行われたがその当時は専門の釣船ではなく農舟を借りるのが常だったので舟べりに傾斜があり普通の万力では下を向くので万力で傾斜を調節出来るようにした優れものでした。ネジの金具が欠品しているが使用は出来ます


「我楽苦多」その4「木製ミニ釣り台」

ミニ釣り台のパイオニア

昭和50年代になると釣り台のブームが起こりメーカーも乱立して金属製から軽いアルミ製が主流となりその当時売れまくった商品名「フィッチャー」が現在も釣り台の代名詞となっている。
その当時馬乗りタイプではこれが一番早かったと記憶している、万力と餌ボール掛けがセットされていたが餌ポール立ては紛失してしまった。携帯用のバッグも付属している。


「我楽苦多」その5「ふらし掛けと元受け」

ふらし掛け?と中央が元受け

ふらし掛け?と言うのか竹製の段巻きで竿掛けとセットだったが竿掛けはどこかに行ってしまった
釣り台の普及と共に使われなくなってしまった。「羽衣」の銘が入っている。中央に見にくいが金属製の元受けアンテナ式で8段に延び33p〜85pの間で使用出来るがこれも万力の普及で使用する事はもう無いだろう。


「我楽苦多」その6「竹竿の長尺物」


グラスロッドの出現まではへら竿は全て竹製だったがカーボンロッドの出現は革命的で一挙にへら竿の主流となり重い竹竿は敬遠され、現代でも熱烈な竹竿信者でもせいぜい15尺まで位しか使用しないのでは無いでしょうか、14尺迄はそれでも1年に1回位は使う事もあるがそれ以上の長さは全く使用せず着物の替わりに桐箪笥の中で眠っている。
左から流れ雲19 16 15 11夢坊別作16 14 12 夢坊夕なぎ17 13 櫓舟15




この中でも極めつけは流れ雲脇銘大利根19.2尺、硬調が大利根普通は水郷の銘があるが利根川本流の冬の釣りのために作られたと聞いている購入以来一度も使ったことはなくたまには繋いでみるがとても振れる物ではない。希少価値の珍品として大切にしているが、果たして竿はどう思っているのだろうか、竿の心は判らない


「我楽苦多」その7「藻刈器」

商品名アルガーカット昭和40年代の後半に購入した記憶があるが、1回位は使用したのか付属の替え刃が2枚不足で10枚しか無い。付属品の3メートルのグラスの振り出しの柄に鎌を付けることが出来又ひも付きの藻刈を投げて藻穴を作るというものだったが、その頃から釣り場からは金魚藻なども姿を消していった、そんな訳で現在は「我楽苦多」箱の住人の一人です。(写真は刃をセットしたところ)



「我楽苦多」その8「へらウキ」




昭和40年代の終わり頃からブランコウキに替わって直結のウキが主流を占め始めたが写真のウキは昭和55年頃の物と記憶しているが左は石井旭舟作でヘラッコマークで親しまれた1本取り
1番小さなのを紛失してしまった。右はくし玉幸の初期作品右端はトップを交換しているが、これも1本取りでその当時としては、最新のウキだったが現在のくし玉幸と比較すると野暮ったくウキの変遷が興味深い、ほとんどが未使用品です。



「我楽苦多」その9「孫ウキ」

昭和51年に関東から新潟に戻って、初めて孫ウキなる物に出会った。大通川では皆んながこれを使用していたのを見てウキが2本付けているのが不思議だった、聞けば道糸を沈める為のものと判り、郷に入らば郷に従えとばかりに新潟市の渡辺釣具店(此処のご主人金吾氏の発案と言われてました)で購入したが初期の物はキビ殻にソリッドを通してオレンジ色に塗っただけの物だったが、その後は市販品も色々と出たが、手先の器用な釣り人が自作して釣友に配ったりしたものでした。
最近では道糸の沈みが良くなったためか、見かけなくなったがたまには長竿の段差一発で使っている人を見かけます。
(真ん中の2本は釣友の自作品)


「我楽苦多」その10「ポンポンウキ」
このウキも新潟に戻って初めて出会ったが関東でも使われていたのかも知れないが、その当時は流れ川などではヘラブナなどは釣るものとは思ってもいなかったので無理もない事だだった。ところが「新井郷川新堀」ではこれが必需品で求めた訳です。その後は例会に出ることも無くなったら「新堀」で竿を出すことも無くなり、最後に使用したのも「喜多方川前」で流れがきつくなった時に使用して大釣りをしたことがあったが、それも遠い日の事となった。このウキは基本的には外通しのドボンになるが、重りに爪を付けてウキを止める工夫などしたものだった。


「我楽苦多」その11「彦兵衛鈎」
古い机の引き出しを整理してたら釣り針が出てきた、懐かしい「彦兵衛」ブランドの改良の7号で
いまから20数年に購入したものらしい、現在は釣りバリはがまかつやグランが主流だが当時はこの「彦兵衛」が主流だったようだ。当時は今と違ってへらも小さなものが多く尺ベラなどには滅多にお目にかかれなかった頃に何の目的で7号のハリを買ったのかは判らない多分使うこともなく引き出しの中で眠っていたのだろう、袋のデザインは戦前からのものだろう、文字が右から左に書かれている、さすがに裏側は現代風になっている。袋の中には「彦兵衛鉤」の由来を書いた紙が入っているのだ。

値段が20本で50円当時としては高かったような気がする、たしかマッシュポテトが1袋30円?か
50円位だったとしたら現在のハリが15本〜20本で300円餌が600円から700円だからハリが安くなったのか餌が高くなったのか?

袋には「銘釣鉤」と有るが「鉤」はかぎの意味があり、釣鉤(チョウコウ)=つりばりの意味である。
ちなみに「鉤緡」(コウビン)=つりばりとつりいと 「釣緡」(チョウビン)=つりいとの意
漢和辞典で調べてみたが色々と面白いものです。


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