我部元親くんはなぜ大河ドラマの主人公になれないのか
 湖海苔屋も長曾我部氏の居城である岡豊城(おこうじょう)あと(高知県立歴史民俗資料館の隣接する山)に行ったことがありますが、近世の丸亀城とは比べようも無い戦国時代の土塁と掘りきりだけの城です。建物跡も小さく小屋のようなものが立っていたに過ぎないようです。同時代の伊予、川之江城や阿波、一宮城のほうが、まだ城らしい石垣や大きな礎石が残っており、長曾我部元親の質実な面をあらわしているのでしょうか。なんでも元親は四国平定をしながら岡豊城から阿波池田の白地城(跡に簡保の宿が建っている)へ、土佐一国になってから大高坂城(今の高知城)から浦戸城(坂本竜馬記念館のあるところ)へと移ったそうですが、近世城郭の高知城以外ではどこもたいした遺跡は見当たりません。

 応仁の乱後、土佐は7守護1公方と言って、東から安芸、香曾我部(あるいは山田)、長曾我部、吉良、本山、大平、津野、に中村の一条(公家)の8ないし9勢力が分立していました。応仁の乱で土佐守護の細川氏が弱体化した事もあって、この中で真っ先によってたかってぼこぼこに抹殺されかかったのが長曾我部氏でした。元親の祖父兼序は大平、本山、吉良、山田らの連合軍に永正5年敗死します。津野氏は早くから一条氏に臣従しており、その次に本当に滅んだのが当主が在京しており京の繊細な文化に染まっていた(和歌連歌など)高岡郡蓮池城の守護代大平氏で、天文年間に国司の一条氏に併呑されました。長曾我部国親(千雄丸)は中村の一条房家に庇護されていましたが旧領に返され、国親、元親父子は最悪ジリ貧の境遇から一両具足の農民兵を率いて残る6勢力を次々倒し(山田、安芸、本山)あるいは懐柔し養子縁組して家臣団に組込み(香曾我部、吉良、津野)、天正2年に最後の一条氏の馬鹿殿を豊後大友氏のもとに追放し、天正3年安芸郡の東端、野根城を落として土佐を平定と、この辺までは書きようでなかなか楽しい痛快時代劇になりますが、あとがいけない。

 だいたい幡多郡中村の一条兼定は遊興にふけるとはいえ親父の恩人の家系です。それを忘恩にも追い払ったのです。悪行と言えば土佐でも今の室戸市の佐喜浜で天正3年に村民皆殺し(室戸では「佐喜浜くづれ」といいます)をやっていたのですが、ベトナム戦争のソンミ村みたいなものでしょうか。天正4〜5年に阿波、三好郡の大西氏を攻略臣従させて四国のへそを取り、、阿波、讃岐、伊予の平定作戦のときも数多くのだまし討ちや、焼き討ちで焼失した古文献、文化財は数知れません。仏像を淵に沈めて守ったとか、焼けた仏像が江戸時代まで残っていたなどの話が各所に伝わります。天正6年秋に西讃岐の財田城(財田和泉守)、次いで藤目城(新目弾正)を攻略し拠点にしたあと、香川氏を臣従させ香西氏攻めに向かいます。讃岐の金毘羅さんの歴史も当時の別当宥珂が元親に抵抗した西長尾城(遊園地レオマワールドの近くの山)の長尾大隅守に組みしたために、史料が消滅し長曾我部以前はぼんやりとしか分からないそうです。罪滅ぼしなのか金比羅さんに元親寄進の賢木門(さかきのもん)が残っています。(伝説では金比羅さんの神罰でくまん蜂に刺された元親公が謝りながら慌てて建てたので、材木を上下反対にしてしまったそうですが。)天正10年8月本能寺の変で信長が滅んだのに乗じて行った阿波、中富川の戦いの戦死者は双方で1503人(阿波843人)を数え(三方ケ原合戦で944人、あの関ヶ原でも約5000人と言われています。)、阿波北方の名門、豪族の多くはこの時に歴史資料もろとも消滅しました。阿波の正倉院の異名を持つ丈六寺には血天井というのが残されており、天正10年9月長曾我部に降っていた新開遠江守道善をだまし討ちにした時の、床の血の手型が洗っても落ちないので寺の天井に改装したんだそうです。これは本当に今もありますので、もし徳島市にお越しの節は見物されるとよいでしょう。
土佐に降っていた阿波守護家の末裔細川真之は元親の配下、江村兵衛進と本木新左衛門らに襲撃され天正10年10月8日仁宇谷(那賀町和食)で自害しましたが、利用価値の無くなった者には容赦無かったのでした。同じく土佐に降った阿波の有力武将一宮成助も天正10年11月夷山城外で土佐の畑弥助らに謀殺されました。海苔屋は転勤して行く先々で元親の残忍な歴史が残っているのに出会いました。

 天正12年6月讃岐の虎丸城から阿波三好氏の後継者でもある十河存保を追い讃岐平定、ついで伊予平定に成功し、四国全土を平定した天正13年にたちまち秀吉軍の侵攻を受け讃岐、阿波の諸城を失い和睦して秀吉に臣従、こりゃプロ野球と草野球の試合みたいなものでしょう。結局のところ雲辺寺の僧の予言通りに「土佐一国の茶釜のふた」になってしまいます。天正14年長男信親は九州の戸次川の戦いで島津軍により戦死。元親は末子を溺愛して御乱心、家督を巡って甥吉良親実を殺害、次男香川親和も病死。慶長4年に元親が死に,慶長5年後継者の四男盛親は関が原の戦いで西軍に属したうえに徳川氏に近かった元親三男の津野親忠を自害させたため改易。盛親は浪人(京で寺子屋をやっていたとも)の後に慶長19年大阪冬の陣、慶長20年大阪夏の陣に出陣して捕らえられ六条河原で斬首され、戦国大名長曾我部氏は滅びます。
そうゆうわけで、その信長をしのぐ残虐性のため大河ドラマの主人公にはなれそうにない、かわいそうな元親くんでした。
高知県の人は元親公の巨像を桂浜の近くに建てて、歴史民俗資料館でも元親公の時代をかなり美化して展示しております。高知県の人達には本当に済みません、龍馬に次ぐ県民の歴史ヒーローの暗い面を暴いて・・・。
湖海苔屋は歴史学者じゃありませんが、趣味のお話として書かせていただきました。出典はあちこちの郷土資料ですが戦死者の数は「阿波古戦場物語」を参照しました。愛媛県には転勤してないので伊予のは十分しりません。道後温泉の湯築城の河野氏もこのとき歴史から消滅したはずです。 各歴史的事件の詳細は折にふれて掲載します。