高瀬淳一HP

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垣間見えた政治的手腕の限界
霧の中の「福田サミット」 
(時事トップ・コンフィデンシャル 2008年8月1日号)

 何とも福田康夫首相らしいサミット(主要国首脳会議)だった。玄人受けは良かったが、素人にとっては、成果があったのかなかったのか、分かりにくかったからだ。

 北海道洞爺湖サミットの三日間は天気に恵まれず、会議場となったホテルも霧に包まれることが多かったが、サミットの成果もちょうどそんな感じだった。政治的決断が見えなくはないのだが、どうもはっきりとはしなかったのである。

玄人受けはしたものの…

 今回のサミットの最大の焦点は、温室効果ガス排出量削減の長期目標明示である。これについて洞爺湖サミットの主要八カ国(G8)首脳宣言が掲げた文言は、次のようなものであった。

 「我々は、二〇五〇年までに世界全体の排出量の少なくとも50%の削減を達成する目標というビジョンを、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)のすべての締約国と共有し、かつ、この目標をUNFCCCの 下での交渉において、これら諸国と共に検討し、採択することを求める」(外務省仮訳)

 議論に参加した首脳たちは、この決定を高く評価してみせた。当事者だけでなく、内部事情に詳しい一部のジャーナリストや学者も、これをプラスに評価した。さらに、国際政治の現場の難しさをよく知っている人々は、福田首相の政治手腕も褒めたたえた。決裂の危険があった長期目標の議論で、 あの米国をつなぎ留めることに成功したのだから、大したものだ。昨年の独ハイリゲンダム・サミットの時の「真剣に検討」と比べれば、「共有を求める」というのは大いなる前進だ……。玄人は、こうした理由を口々に述べた。

 一方、交渉の苦労がどうであれ、政治的な飛躍を期待して国際メディアセンターに詰め掛けた人たちは、物足りなさを感じていた。非政府組織(NGO)のスポークス・パーソンが「こんなものは成果でも何でもない」と不満を述べるのは当然としても、普段は国際政治を主な取材対象にしていないマスコミ関係者までが「やはり『前進』とは言えないのではないか」という評価に傾いていった。

 確かに、この宣言文は素人には分かりにくい。関係国すべてによる「ビジョンの共有」をG8は追求するのだ、という言い方は実に意味深長である。このビジョンを米国が承諾したことを示唆する一方で、中国やインドなど新興国がビジョンの共有を否定してきた場合、米国も義務を負わずに済むという「逃げ道」を用意している。要するに、五〇年までに温室効果ガスの排出量を50%削減する気が米国にあるのかないのかが、はっきりしないのだ。

 しかも、見方によっては、UNFCCC締約国会議に結論を先送りしたようにも読める。国連の会議に最終決定を委ねるのは筋なのだが、もっとはっきりとG8が先行する努力を打ち出すべきではないのか、という疑問は当然残る。

 結局、幾つものメディアの解説で「玉虫色」という表現が使われることになった。あるいは「半歩前進」などという表現で、高く評価することへのためらいが示された。洞爺湖サミットで画期的な結論が出ることを期待していた報道陣の少なくとも一部は、玄人受けする宣言文には満足しなかったのである。 

指導力アピールできず

こうしたメディアの論調に気付いたためか、福田首相は七月九日の議長会見で、この文言は「米国を含むG8諸国がこの目標に合意していることを当然の前提」としていると力説した。政府関係者からも「合意」という言葉は使われなかったが、「共有」という言葉は「事実上の合意」である、との解説がしきりに流された。あまりにも表現が「官僚的」であったために、そうした「読み解き」をしないと真意が伝わらないと思ったのに違いない。

 一般論としては、国際交渉が地道な努力の積み重ねで一歩ずつ進められるべきものだ、という話は理解できる。微妙な言い回しの工夫によって、何とか合意を得ようとする苦労も分からないでもない。決裂する事態を考えれば、交渉のテーブルに着いているだけで褒められるべきケースもあるだろう。

 しかしサミットは、そもそも各国の首脳が集まって、国際社会に「政治力」を見せ付ける場である。一九七五年にサミットが創設された背景の一つにも、内政と外交の結び付きが強まり、外交官的な手法では十分に対応できなくなってきたことがあった。官僚レベルでは決められない政治的決断を、 多少の無理を承知であえてしようというのが、本来、この首脳会議の役割なのだ。しかも、今回は日本で開かれている。日本のマスコミが福田首相の手による大きな成果を期待するのは当然だった。

 長期目標については、福田首相が前夜、シェルパ(首脳個人代表)にさらなる調整を指示したことが報道された。また、首相自身もブッシュ米大統領に電話して交渉したという報道も流れた。いずれも、福田首相のリーダーシップをアピールしたいという願いが込められたリーク≠セったに違いない。

 だが、その一方で、地球温暖化対策を話し合うG8首脳のワーキング・ランチが、激論を見ることもなく、予定時間より早く終了したという事実も発覚した。シェルパたちの根回しの段階で一定の成果が出たので、肝心の首脳の会議では議論が盛り上がらなかったためだろう、という解説まで付いていた。時間があったのであれば、もう一歩話を進めようとして福田首相が新たな議論を提起することも可能だったはずだ。残念ながら、物議を醸す可能性のある新たな働き掛けは、きっとお得意ではなかったのだろう。

 事務当局に周到な準備をさせ、そこで煮詰められたこと以外には、議論を発展させようとはしない。福田流のリーダーシップとは、そういった根回し型、調整型のものである。官僚機構の努力によって玄人受けする成果は出てくるが、素人に感動を与えるようなものにならないのもそのためだ。

 外交に通じているといわれた福田首相だが、問題への対処の仕方においては、内政も外交も同じであった。要するに「官房長官型」なのである。もちろん、敵をつくらないように配慮しながら「落としどころ」を探るという手法も、それなりの「政治的技巧」を必要とする。だが、打開すべき世界的な難題を前にしても、こうした調整型の政治力しか発揮できないのでは、日本国民はもちろん、世界の人々から称賛の拍手を得られるはずがない。サミット後の各紙の世論調査で、およそ六割の国民が「議長として指導力を発揮しなかった」と回答したのは当然のことだ。

成果と物足りなさと

 ただ、福田首相の議長ぶりはともかく、全体として見れば洞爺湖サミットは難題を多く抱えたサミットだったにもかかわらず、一定の成功を収めたと評価してよい。幾つの大きな成果があったと言えるからである。

 主要議題となった地球温暖化対策でも前進はあった。数値目標こそなかったが、G8各国が「野心的な」中期の総量規制を実施すると決めたのもその一つだ。また、日本が主張してきた排出削減目標を定める際の「セクター別アプローチ」の有用性も認められた。宣言文には、クリーン・エネルギーの推進や、原子力エネルギーに関する国際イニシアチブの開始も盛り込まれた。日本政府は、自らの主張が通ったことを喜んでいるに違いない。

 さらに、食糧安全保障について特別声明を出したことも評価してよい。緊急支援に加え、中長期的な対策を立てるための専門家会合の創設などを盛り込んだ点も良かった。また、途上国支援では、特に保健衛生分野で、感染症対策、母子保健、医療従事者の教育支援などを含む「洞爺湖行動計画」の実施が決まった。地道ではあるが、途上国の人たちの生活を支えようというこうした支援策は、高く評価すべきだ。

 一方で経済問題については、米国への配慮からか、物足りなさが残った。原油価格高騰の要因となっている投機マネーの規制については、米国の反対でほとんど議論されなかった。市場に流れ込む資金の透明性の確保を図ることなどが宣言文に盛り込まれたが、果たしてそれだけで十分な対策と言えるのか。市場経済に対する政治的関与の在り方についてはいろいろな意見があるだろうが、やはり疑問は残る。そのほか、米国が震源地となった低所得者向け(サブプライム)住宅ローン問題についても、全く触れなかった。恐らく、米国が嫌がることはあえて取り上げない、という基本姿勢が福田首相にはあったのではないか。

 政治問題についても、実行力のある決定がなされたのか、判然としないところがある。G8はイランの核兵器開発に対し「深刻な懸念」を表明したが、イランはこれをあざわらうかのように、九、十の両日、長距離ミサイルの発射実験を行った。

 北朝鮮の核問題でも、六カ国協議の日程が洞爺湖サミット後に設定されたために、強いメッセージを出せずに終わった。日本政府は、「拉致問題」が明記されたことで喜んでいるのかもしれないが、それだけで満足してよいのか。ここでも疑問は残る。

パフォーマンスに工夫なし

 国民が沸き返るような成果が出なかった以上、洞爺湖サミットにおける福田首相の振る舞いには、もう一工夫があってもよかった。端的に言えば、もっとテレビ映りを良くしてほしかった 

 洞爺湖サミットは日本で開催されている。主役は福田首相である。舞台回しは得意だが舞台の上ではパッとしない、というのでは国民もがっかりする。だが、こういった「見栄え」を意識した振る舞いは、残念ながらこの晴れ舞台でもなかった。

 実際、ニュース映像において、福田首相は目立つことが少なかった。もちろん、議長なので公式の写真撮影では中央に立つ。だが、そこに向かうまでの間、福田首相が先頭に立って、ほかの首脳に声を掛けながら率いていくようなシーンはほとんどなかった。記念植樹の際も音頭を取ることなく、 首脳たちがバラバラに土を掛け始めた。なかなか着席しない首脳たちに対し、グラスの縁の部分をたたいて音で議論の開始を告げることはあったが、これも大きな声を出して呼び掛けたわけではなかった。

 要するに、洞爺湖での福田首相には、各国首脳と熱心にコミュニケーションをとろうとする姿勢があまり見られなかったのである。各国首脳から語り掛けられて談笑する姿はあった。だが、自らが先頭に立って、コミュニケーションの場を形成しているといった様子には見えなかった。これは語学 力の問題ではない。小泉純一郎元首相が議長であったならば、着席しない首脳たちに向かって、大きな身振りできっと何か言ったことだろう。歩いている時も、ホテルの従業員に向かって投げキスをするベルルスコーニ伊首相の向こうを張って、何か大げさなパフォーマンスを見せようとしたことだろう。

 洞爺湖サミットの記者会見で、福田首相は「大きな成果」を強調した。仮にそうであったとしても、それは事務当局の入念な準備故の成果であり、自らが首脳会議で積極的に発言した結果ではなかった。映像として流れた首脳たちの交流の場面でも、福田首相は積極的にその存在をアピールすることはなかった。テレビ政治の時代、大胆に行動している姿が見えなければ、政権のイメージアップは望めない。洞爺湖サミットを弾みに支持率の回復を図ろうというもくろみは、当の本人が「捨て身」でなかったために、期待外れに終わってしまった。

首相に期待できるのか?

 メディアの世論調査で福田内閣に対する「不支持率」が50%を上回るような結果が出初めてから、そろそろ半年が経つ。半数以上の国民が、この政権を「明確に支持しない意思」を示してきた意味は実に重大である。不支持は「悪くはないが積極的には支持できない」といった意見とは違う。はっきりとした「ノー」が過半数に達しているのだ。

 閣僚に不祥事があった安倍前内閣とは違う。周りに「お友だち」が多過ぎるといった批判も聞かない。ならば、この不支持率の高さは、首相個人の責任によるものではないのか。

 「自民党をぶっ壊す」わけでもなく、「美しい国」を創(つく)ろうとするわけでもない。ならば何をしたいのか。福田首相は、この部分をしっかりと国民に伝えていない。不可能とも言える政治目標を掲げ、それを分かりやすい言葉で国民に示して、果敢に挑む。官房長官型の首相にこうした政治スタイルを求めるのは、やはり無理な望みなのだろうか。

 七夕だった。各国首脳は短冊に「夢」を書いて七夕飾りにぶら下げた。福田首相は「温故創新」と書いた。「新しきを創りたい」という決意を示すにしては、クリエーティブとはほど遠い造語である。

 この記事が出るころ、政界は内閣改造の話で持ち切りだろう。内閣支持率回復の道はもう閣僚人事でのサプライズしかないと思われるが、これもバランス重視の福田首相には無理な相談だろう。せめて「古き派閥を温め、新しき内閣を創る」ことのないように願いたいが、これも七夕の夜の洞爺湖畔のように、雨にかき消される「夢」に終わってしまいそうだ。


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