殺人鬼・金日成の徹底的な反対派粛清(殺害)

朝鮮戦争の被害は戦争を起こした北朝鮮の方が韓国より大きかった。

国連軍の火力が共産軍の火力よりはるかに強く、特に中国軍の参戦以後、
さらには、休戦協議に入ってからも、国連軍による空中からの集中的な
破壊が行われたからである。

このような被害の大きさだけでなく、朝鮮戦争は、北朝鮮社会全般に
凄まじい影響を及ぼした。

そのなかでも、最大のものは、殺人鬼・金日成による反対派の徹底的
粛清(殺害)である。これは、スターリンの反対派徹底的粛清(殺害)
そっくり、そのまま見習ったものである。

朝鮮戦争の直前、北朝鮮の権力構造内部には四つの政治的派閥が共存していた。
国内派、延安派、ソ連派、金日成を中心とする満州派である。

金日成は、1950年12月、先ず延安派の軍事指導者・武亭を粛清(殺害)した。
中国軍の介入により、延安派が鼓舞されはしまいかと恐れた金日成は、
平壌陥落の責任を問うて武亭を殺害したと見られる。

これよりもさらに大きな粛清(殺害)は、休戦と前後して敢行された。
3年間続いた朝鮮戦争が休戦で終わってしまったので厭戦思想が蔓延した。
この状況下で、これに対する責任を負わせるべきスケープゴートとして、
殺人鬼・金日成は、国内派、すなわち南労党系列に照準を合わせたのである。

休戦直後の1953年8月3日、北朝鮮当局は、朴憲永をはじめ、
13人の南労党出身者が、「米帝のスパイ」として「米帝と結託」の下に、
金日成政権の転覆を図るクーデターの陰謀を企てたとして、1952年末に
逮捕され、それまでの捜査の結果、裁判に回されたと発表した。

北朝鮮最高裁判所特別軍事裁判は4日間続けられた。金日成の実弟の
金英柱が終始指揮に当たった。

しかし、朴憲永だけは、知名度も高く、国内外に与える後遣症を考慮して、
この裁判には含めなかった。

軍事裁判の結果、彼らは、「朴憲永を首相に据え、李承樺を党第一書記とする
新しい政権の樹立を企てたこと」が明らかになったとして全員が極刑に処された。

北朝鮮軍の南朝鮮占領当時、ソウル臨時人民委員長を務めた党中央委員会書記
兼人民検閲委員長の李承樺、文化宣伝省副相の趙一明、詩人で朝ソ文化協会
中央委員会副委員長の林和、党連絡部副部長の朴勝源、北朝鮮人民委員会
外務局長を経て貿易省一般製品輸入商社社長の李康国、党連絡部長の嚢哲、
米国軍政下の公報部世論局長を務めたのち北朝鮮に移り、北朝鮮軍最高司令部
総政治局第7部員だった醇貞植、遊撃隊第10支隊隊長の孟鍾鏑、人民検閲
委員会上級検閲員の趙鋪福、元南朝鮮の警察幹部だった白亨福らは死刑になった。

党宣伝扇動部副部長の李源朝は懲役12年、党連絡部副部長だった尹淳達は
懲役15年の有期刑を宣告された。

朴憲永に対する裁判は、2年半後の1955年12月に行われた。朴憲永は
1955年12月15日、最高裁判所特別法廷に立った。最高人民会議常任
委員会の決定により、民族保衛相を歴任し、朴憲永の後を継いで副首相に
昇進した崔庸健が裁判長に任命された。検事総長の李松雲が論告した。
朴憲永は、即日、死刑が求刑された。1957年に死刑が執行された。

南労党幹部の粛清(殺害)と同時に、多数の韓国から北朝鮮に来た南労党員
たちが、職場から追われ、自己批判を強要され、刑務所や強制収容所に送られ、
そのあげく、粛清(殺害)された。
こうして、一つの政治勢力であった南労党勢力は完全に根こそぎにされてしまった。

南労党一派に対する粛清(殺害)と併行して、南労党系以外の要人たちも
少なからず粛清(殺害)された。

その代表的な例が、ソ連派の頭目格だった許寄而である。ソ連共産党の党籍を
持ったままソ連占領軍とともに北朝鮮に入り、北朝鮮労働党、後に朝鮮労働党の
創党に貢献した許寄而を、金日成は「党博士」と呼んだこともあった。
彼は南労党一派に対する粛清(殺害)が開始された当時、党中央委員会の書記
兼内閣副首相であった。彼は1953年4月に拳銃自殺した。

金日成の反対派粛清(殺害)は、これにとどまらなかった。

1956年2月ソ連の新しい権力者として登場したソ連共産党中央委員会
第一書記兼ソ連政府首相のフルシチョフがスターリンの独裁を非難し、
集団指導体制の原理を再び強調したことに鼓舞されて、同年8月、延安派は
ソ連派の一部の同調を得て、金日成に反対する運動を開始した。

ちょうどそのとき、金日成は、援助資金を確保するため、ソ連と東欧諸国を
旅行中だった。急遽、帰国した金日成は、軍部と秘密警察の確固たる支持の上に、
反対運動を開始した一派を、「反党宗派主義勢力」と断罪した。延安派の頭目
であり、北朝鮮労働党の初代委員長を務め、北の政権樹立後は、引き続き、
国家元首格の最高人民会議常任委員長職にあった金科奉と、彼の長年の同志であり
金日成大学副総長を歴任した韓斌、副首相の崔昌益、商業相の尹公欽、
職業総同盟委員長の徐輝、駐ソ大使李相朝などといった延安派のリーダーたちと、
許寄而の自殺以後、ソ連派の事実上の頭目だった副首相の朴昌玉、同じく副首相の
朴義現、建設相の金承化のようなソ連派のリーダーたちを、その時、
すべて粛清(殺害)した。

この粛清(殺害)事件を、北朝鮮では、「八月宗派事件」と呼んでいる。

反対勢力に対する金日成の無慈悲な粛清(殺害)は、これでは終わらず、
その後、2年間続けられた。この徹底的な粛清(殺害)によって、1958年までに、
金日成の「唯一独裁体制」が確立された。

金日成の一連の粛清(殺害)は党上層部の構成を徹底的に変えたが、党の
下層部でも、その構成が大きく変わった。その最大の要因は、朝鮮戦争中、
「約16万人」の党員が、党籍を捨てたり「犠牲」になった反面、
約40万人が新しく入党したからである。1956年初めには、
党員の約51.7%が、朝鮮戦争勃発以後に入党した者だったという。
以上