朝鮮戦争における中国共産党軍

米海兵隊関係戦史によると、米国は中国共産党軍の圧倒的人海作戦は
予想以上の強さでキモを潰したとある。米軍は中国共産党軍によって、
いかに圧倒されたかがよくわかる。

中国の介入警告にもかかわらず、北朝鮮に侵入した米軍第8軍は、
11月24日、「クリスマスまでに米兵を帰還させる」とまで
勝ち誇った発表を行なった。快進撃を続けていたのだ。

ところが、この発表があった2日後の11月26日、中国共産党軍は、
韓国軍第2軍団、米軍第1軍団と米軍第9軍団に総攻撃をかけてきた。
韓国軍第2軍団は壊滅した。

中国共産党軍は、10月中旬ごろから、慎重に戦闘部隊を北朝鮮に入国させ、
国連軍の戦闘能力を秘かにテストしていた。そのテストによる国連軍の
戦闘能力評価に基づいて11月26日、総攻撃をかけてきたのである。

米国戦史上最大の退却が2か月間続いた。国連軍の南朝鮮から全面撤兵が
真剣に討議された。米軍兵士の士気は、1950年12月には、
全戦線にわたり失われていた。
米国の戦史家たちは、1950年12月を
パニックと倦怠の月と評した。動物の群のように狂気じみた中国共産党軍の
圧倒的人海作戦攻撃が続けられていた。米海兵隊の歴史編纂者たちは、
中国共産党軍の力量を評価せざるを得なかった。

中国共産党軍は百姓部隊であるが、彼らの作戦と戦略の水準は、
世界第1級の地上部隊であった。武器装備はきわめて貧弱だが、
ゲリラ的な機動力をもち、この機動力は重装備を持っていないだけに、
かえって強力なものとなっていた。 ツギダラケの木綿の軍服を着た
中国共産党軍のクーリー(苦力)兵士は、地球上のどこの国の兵士よりも
勇敢だった。夜陰に乗じて米軍陣地深く侵入し、手榴弾やサブマシン・ガンを
撃ちこんでくる力量は、米軍に衝撃を与えた。彼らの夜襲は、地上から湧き出た
地の精【ノーム】であるかのような錯覚さえ起こさせるものであった。

この中国共産党軍のアジア的な圧倒的人海作戦攻撃は、他に類を見ないもので
あった。中国共産党軍は、連隊以上のユニットでは、ほとんど攻撃をかけて
こなかった。小隊単位の攻撃を、果てしなく繰り返したのだ。

大人数による1回きりの攻撃がなされたのではなく、小人数奇襲攻撃が
繰り返されたのだ。昼は隠れ、夜になると長距離行軍をして攻撃をかけてくる
戦略は、世界中で、これ以上の部隊はないと思えるほど強力なものであった。

だいたい50人単位で、掘っ建て小屋か洞窟のなかに潜んで昼を過ごし、
2、3個の【にぎり飯】を持って、夜、でかけてくるのだ。自然の地形を巧妙に
利用し、畔道(あぜみち)や、クリーク(小川)の間の小道をたどって前進
してくる。米軍の抵抗に出会うと、その場で散開する。攻撃を仕掛けて、
失敗し、多数の負傷者を出しても、目的を遂げるまで攻撃は止めないのだ。
別の部隊が前進してきて、侵入地帯を奪いとるまで攻撃を続けるのだ。

前線は、1個小隊または2個小隊になっていたが、後方に後続部隊を
控えさせていた。その攻撃ぶりは、よく訓練されたスティール(盗塁)であり、
大胆をきわめた。米国の新聞記者たちは、この作戦を【動物の群】とか、
【人海攻撃】とか呼んだが、米海兵隊では、「いったい、中国軍の1個小隊
には何人の兵士がいるのか」と首をかしげた。

弱点も発見できた。それは物量面で、彼らが大きな制限を受けていたことだ。
とくに砲兵、野砲と迫撃砲の弾丸が極端に不足していた。歩兵部隊が
後方からの支援を受けることも少なかった。捕虜をつかまえて尋問した結果、
各部隊の兵士は、鴨緑江を渡った時に80発の弾丸を支給されたが、
これがすべてだったようだ。

野砲、迫撃砲部隊は、弾丸が限られていたため、米軍の後方に回って、
必ず当たるという地点にきてから撃つ。前線と後方の補給基地との距離が
48キロぐらいあったので、人馬の輸送力では後続がきかなかったわけである。

米軍は、原爆時代に入った最初の戦いを朝鮮を舞台に行なったのだが、
皮肉にも、これはまさに、インディァンと戦っているのと同質の戦争であった。

中国共産党軍と北朝鮮軍の混成兵力総計は70個師団・70万人であった。
国連軍は、陸上部隊・42万人と、極東空軍の18個部隊・23万人であった。

さらに、米海兵隊関係戦史は、中国共産党軍の正体について次のように
述べている。

中国共産軍の指導者たちは、全人民解放軍のなかでモデル部隊を選抜して
派兵してきたと思われる。第4野戦軍と第3野戦軍のなかから、
選抜された精鋭部隊を出してきたのだ。最初に鴨緑江を渡った
中国共産党軍部隊は30個師団・30万人であった。
この30個師団は、各種各様の部隊から選抜されたもので、装備、訓練、
経験がもっとも秀れたものであった。

米軍が中国共産党軍捕虜を尋問した結果、
各部隊によって、その政治的洗練度や経験、訓練が、いろいろ違っている
ことが分かってきた。林彪が指揮した第4野戦軍は、中国人民解放軍の
五つの野戦軍中、最強との定評があった。この選抜軍は【鉄】部隊という
名誉あるタイトルを持ち、国共内戦で国民党軍をやっつけたのち、
軍事的技術を身につけた国民党軍捕虜を巧妙に編入した部隊で、
新規召集兵は少数であった。

初期の介入段階で、第4野戦軍の第50軍だけは例外であった。
この部隊は、国民党軍第60軍が国共内戦で寝返り、
名前を変えて出動してきたものであった。

初期の10月、11月段階で介入してきた中国共産党軍のなかには、
第2野戦軍は入っていなかった。第1野戦軍からは第66軍だけが
入っていた。この第66軍は、兵士の政治的信頼度で定評があった。
北京で、毛沢東のボディガードをつとめたという部隊だ。

中国共産党の最高指導者たちは、早期の勝利を期待していた。
1950年11月末と、1951年元旦の大攻撃で、その戦略と士気において、
彼らはベストの部隊でベストの攻撃を展開し、装備に長じていた
米軍を殲滅できると考えていたようだ。

彼らの第2段階攻撃は、1951年1月に行なわれた。これに失敗すると、
彼らは38度線付近に強固な防衛線を引き、新たな作戦に入った。
この段階で、林彪が彰徳懐と交替した。中国から新しい部隊を補給することが
考えられた。新規に補給された戦闘部隊は、第1野戦軍、第2野戦軍から
選抜されたものであった。

中国共産党軍の春期攻勢時の兵力を、米軍は、当初、36個師団と評価したが、
これは誤りであった。実際は、19個軍、57個師団であった。

参考資料1:『文藝春秋 2009年11月号』 第260頁〜第285頁
       ディヴィット・ハルバースタム『朝鮮戦争 マッカーサー神話の嘘』

参考資料2:ディヴィット・ハルバースタム著
       『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 上&下』
       
文藝春秋 2009年10月発行

以上