ヤルタ会談時の世界の軍事情勢
歴史的事実をたどれば、1939年9月に第2次世界大戦が勃発して以来、
米英首脳はたびたび会談し、枢軸国(日独伊)に対する連合国の協力体制を
固めつつあった。1943年11月末、テヘランにおいて、米英ソ三大国の
首脳会談が初めて開かれた。
そのころはまだドイツ軍がヨーロッパ諸国に展開し、各地で抗戦しており、
3国会談の議題は主として軍事面での作戦協力であった。テヘラン会談で
3大国の協力がなり、西と東からドイツを攻撃する態勢ができた。
44年6月6日、米英軍はノルマンディーに上陸した。
6月23日、ソ連軍が総攻撃を開始した。ドイツ軍は一挙に劣勢に追い込まれた。
1945年2月のヤルタ会談は、ドイツの敗北が動かしがたいものとなり、
一方で、米軍機による日本本土空襲が本格化した時期に、
ルーズベルト米大統領の再三にわたる提唱により、戦争を一日も早く
終わらせるとともに、世界の恒久平和を確立することを願って開かれたもので
あった。
しかしながら、本書に明らかなように、ヤルタ会談が開かれたのは、
ドイツ軍の最後の大反撃を受けて西部戦線の連合国軍が一時的に守勢に
立った時であった。この時、チャ−チルはスターリンに、東部戦線における
ソ連軍の攻撃の強化を要請していた。45年1月、1月攻勢に出たソ連軍は
ポーランドの都市を次々に占領しつつあった。また太平洋の戦いでは、
米軍は日本との決戦をひかえ、ソ連の北からの軍事攻撃を欲していた。
この軍事情勢が、米英の老首脳をはるかヤルタの地へ足を運ばせた。それゆえ、
この第2回の3大国会談であるヤルタ会談において、
主導権を握っていたのは、明らかにスターリンであった。
ヤルタ会談で論じられ、決定された多くの事柄が、
ソ連の意向を強く反映しているのは時の勢いであった。
米英は、一方でソ連の戦力を必要としつつ、他方で、ヨーロヅパ諸国を
ソ連の支配から守ろうとする二律背反のために、少なからぬ妥協を強いられた。
会談の主要なテーマは、
@ドイツの降伏をめざす三国の協力、
A戦後のドイツ対策、
Bポーランドなど東欧諸国問題、
C国際連合の具体案、
D対日戦協力、
であったが、そのいずれにおいても、米英、ことにアメリカの譲歩によって
ソ連の主張が通っていった。この事情を、3首脳の人柄や心身の状態と
ともに、本書は詳しく伝えている。
こうして、黒海のほとり、クリミア半島の保養地に、米英の派遣団約700名が
送り込まれたヤルタ会談は、比類のない大会議でー核時代の幕開け前夜
ではあったが−、戦後の世界の枠組みを決定した。
それゆえ、ヤルタ会談は、ルーズベルト、スターリン、チャーチルという主役は
とうに亡くなり、すでに40年あまりたった今日においても、なお、
人びとが立ち返るべき原点として、厳然と存在している。
ミッテラン・フランス大統領は、
「西欧の愛国者の思いはただ一つ、【ヤルタ体制の打破】である」と語った。
西欧にとって【ヤルタ体制】は重い遺産なのである。
以上