「……………?」
玄関からの物音に、顔を上げる。
次いで気配を探ってから首を傾げた。
「コーチ…?」
呟き、腰を上げる。
手に持ったままの本にはしおりを挟んで机に置き、自室の扉に手を掛けた。
そ、と扉を押し開いて、階下の物音に耳を澄ます。
家に入ってきた人の気配は自分の師で間違いない。
けれど今日は十二仙会議で、
更に帰りに太乙さんの洞府に寄ってくると言っていたので。
それにしては早すぎる帰宅を不審に思ったのだった。
おまけに帰宅したのにただいまの声すら掛けないのはおかしい。
自分の考えに頷き、師の一連の行動のあやしさに眉根を寄せてから、
天化は足音を忍ばせて階段を下りた。
+++定例報告書+++
階段の最後の段からそうっと足を離し顔を上げ、居間に向かおうとしている道徳の後姿に目をやる。
気づかれてはいない。
けれどその周りを探る様子と挙動不審さから、あまり近づくと勘付かれるだろう立ち止まり目を細めた。
―――あからさまに、あやしい。
階段の手すりに右手を預け、その場ですっと背筋を伸ばし口を開いた。
「コーチ、お帰り。」
かくれんぼの鬼で最後の一人を見つけたときのような、余裕。
その声にびくりと肩を振るわせた道徳を、妙な優越感を感じつつ眺める。
「った、ただいま…天化?」
語尾の疑問符に動揺が見て取れた。
ゆっくり、ゆっくりと振り返った顔には、明らかな愛想笑いまで浮かべて。
それに気づかないふりをしながら、天化は階段から離れ道徳のほうに歩み寄る。
「太乙さんの所に寄るって言ってたから遅いかと思ってたんだけど、早かったさね。」
「う、うん、太乙に頼んでたものが出来上がっていたから受け取ってそのまま帰ってきたんだ。」
道徳は背を見せ、こちらが進んだのと同じ分だけ進むので間が縮まらない。
近づかれたくない理由でもあるのだろうかと推測し、その距離を維持することにした。
「頼んでたもの?」
訊ねれば、存外素直にこくりと大きく頷くのが見え。
「大型のじゃなくて、装着型のトレーニング機器。」
「…へえ。」
思わず打った相槌が自分でも笑えるほど呆れたような声だったことに、多少焦った。
しかし道徳のほうは気にしていないようで、ほっとする。
それもそのはずで、現在他にもっと気がかりなことがある様子。
天化は小さく溜息をついた。
身体を鍛えるのが楽しくないとは言わないが、道徳のは明らかに度を越えていると天化は思う。
かといって、やたらに筋肉をつけるわけでもないのだ。
筋肉にも色々と種類があるらしく、
簡単なもので言えば短距離走と長距離走で使われる筋肉の違いだとか。
白い筋肉と赤い筋肉の違いだとか。
他にも詳しく説明されたが、長いやら難しいやらでよく覚えていない。
まあとにかく、彼の攻撃・動作・行動の様式に合い、それでいて過不足のないぎりぎりのラインで。
無駄なく均整のとれた身体を作る。
"動く"というそれを極めた彼がもし、
指の先まで神経を使い本気で動けばどれだけ優美で人目を引くことか。
普段の何気ない所作や姿勢のよさから、その片鱗は窺える。
日々怠ることなく、そんな身体を維持し管理しているのだ。
―――しかも出来るだけ面倒な方法で。
鍛えるために運動しているというより、運動したいがために鍛えているような。
そういうおかしなところが、道徳にはある。
そう天化は思っていた。
妙なトレーニング機器を太乙に開発してもらっては試しているのは毎度のこと。
ああまたか、と呆れるのも仕方がない。
頷いて、天化は師の背中を見た。
そう、だから師の言葉はどこも変ではなく。
おかしいのは、彼の態度だ。
「コーチさ、その装着型のトレーニング機器を今、服の下に着けてるのさ?」
さりげなく。
だが明らかに誘導尋問。
「え、あ…うん。」
ほしい答えを得、にこりと微笑む。
「やっぱりそうさ?だってお腹の所が膨らんでるしさ、そうかなって思ってたのさ。」
そこで漸くこちらの言葉の白々しさに気づいたのか、道徳は口篭る。
が、それしきで手を緩める天化ではない。
「俺っちも見てみたいなぁ、そのトレーニング機器。」
びくり、と肩が震える。
だからそういう態度が。
溜息をついたのと同時に、鳴き声が聞こえた。
『にゃー』 と。
「…………………コーチ?」
たっぷり十秒以上沈黙して、これ以上無いくらい優しい声音で問いかける。
「今のは、何の声さ?」
背を向けていた道徳の正面に回り、目を合わせて微笑む。
「これ、は…あれ、あの、トレーニング機器の音。」
この後に及んで言い訳をするが、しっかり目を逸らして言われても説得力はない。
「へええぇ、それはまた珍しいものさね…。」
歩み寄って、肩に手を置く。
「だから、やっぱり、是非見せてもらいたいんだけどさ?」
その言葉に、観念したように道徳は服の下から仔猫をとりだした。
大体、最初から、彼の行動はおかしいのだ。
玄関から家に入る時、その気があれば道徳は気配を完全に絶ち、物音も立てずに移動できるだろう。
気配を読むことも、彼には容易いこと。
階段から降りるこちらの行動も手に取るように分かるのだから、声を掛けられて驚いたのは演技。
疑うように仕向けるためなのかあからさま過ぎるほどの挙動不審さは、言うに及ばず。
こっそり帰宅しようとしたのに見つかって、隠し事もばれる、なんて。
演技過剰だ。
本気でやろうと思えば完全にやり遂げられる事をここまでわざと失敗し、
そのうえその演技がこちらにばれていない、と思っている辺りが変だ。
いや、一番変なのはその演技にのって、
わざわざ突然声を掛け、誘導尋問し、問い詰め白状させる一連の行動をやってのけた自分かもしれない。
道徳が仔猫や仔犬を拾って帰ってくるのは、これで何度目だろう。
最初の頃は純粋に、隠し事が出来ない人なんだと思っていたのだけれど。
先述の通り 『出来るはずのことをやっていない』 と気づき、彼の行動の一つ一つを思い出した時に。
思わず、頬が緩んだのだ。
―――微笑ましいというか、なんというか。
そんなところが周りから散々、道徳に甘いと言われる所以。
しかもそれが悪くない、と思っていたりするところが重症。
何故仔猫を拾ってきてはいけないか、ということはきっと、充分分かっているのに。
天化より何百倍も長生きして、色々な人の、動物の、死を見守ってきた筈なのに。
それでも。
こっそり帰ってきて、見つかって、怒られて。
何度も繰り返す。
道徳がそういう変わった行動をとるのは天化に対してだけだ。
たぶん自分をちゃんと叱ってくれる人がいるのだという確認をとっているんだろうな、と。
叱られるということは、自分がどうでもいいと思われていないんだ、と。
そうはっきり自覚しているかは、分からない。
でもそんなところだろうと思い、自惚れるくらいには、彼のことが好きなのだ。
―――そんな回りくどい方法で確かめなくても、良いのに、さ。
だから天化は演技を続ける。
仕方のない師匠に呆れる弟子のふりを続ける。
「明日から、一緒に人間界に里親探しに行くさよ。」
俯いていた顔を上げ、途端に嬉しそうに笑う顔を見て、何もかも許せてしまう自分はやっぱり。
それも悪くない、とも思っている。