chapter39

衝撃
早苗が正樹の診療所に来てから半年が経った。島の人たちは正樹のことをドクター、早苗のことをシスターと呼ぶようになっていた。毎晩のように二人はあちらこちらの誕生日に招待されていた。診療費はただ同然だったので、やりくりはとても苦しかったが、毎日のように島の人たちからパーティーに招待され、そのおかげで食費とアルコール代は節約は出来た。市場の魚屋に嫁いだ千代菊からも三日に一度は魚の差し入れがあり、商売の売れ残りとはいえ、とても大助かりだった。千代菊の子供はもう歩き始めており、目が離せない大変な時期を迎えていた。菊千代は千代菊に岬の豪邸で一緒に暮らすことを望んでいたが、千代菊は亭主のハイドリッチとその家族と一緒に市場の近くの家で暮らしていた。正樹の診療所と同じような簡単なブロック造りの家だが、千代菊は島の人間になりきろうと一生懸命だった。早苗が正樹のところに来て喜んだのは正樹だけではなかった。日本語しか出来ない千代菊も話し相手が近所にやって来て大喜びだった。千代菊にはすでに二人目の子供がお腹におり、早苗がすぐそばにいてくれることがとても心強かった。そんなわけで早苗と千代菊の二人は自然と仲良くなっていった。
そんな平和なある日、早苗と千代菊は子供を連れて岬の家に向かって歩いていた。すると一人の男が歩いてきた。その男は白いワイシャツにだぶだぶのズボンを穿いており、遠くから見ても、すぐに日本人であることが分かった。すると突然、早苗が後ろを振り返り千代菊に言った。
「千代ちゃん、あたしは忘れ物をしたから、とって来るわね。先に行っていて頂戴。すぐに行くから。ごめんね。」
千代菊の返事も聞かずに早苗は足早に去って行ってしまった。千代菊は仕方なく子供と二人だけで岬の豪邸に行くことにした。日本人はどうも海外ですれ違っても、お互いに声を掛け合ったりはしないものだ。千代菊も近づいて来る男が明らかに日本人だと分かっても知らんふりをしてすれ違った。男は何か考えごとをしているらしく、まったく千代菊と子供には興味を示さなかった。
早苗はかつての外交省の特別調査室の同僚である沢田が岬の家の方から歩いて来るのを見て、素早く振り返り、身を隠したのだった。沢田は早苗にはまったく気づかなかった。もうこの島の調査は終わっているはずなのに、いったいどうして沢田がこの島にいるのだろうか。早苗は次第に不安になってきた。診療所に戻ると、早苗は特別調査室の沢田とビーチロードで危うくすれ違うところだったと、正樹に話した。正樹の表情が曇った。
「もしかすると君を捜しに来たのかもしれないよ。」
「いえ、それはないとおもうな。だって、あたしは、誰にもこのボラカイ島に来ることを話さなかったわ。」
「するとまだ岬の家の調査が続いているということになるのかな?その沢田とかいう調査官は一人だった?」
「ええ、彼は一人で豪邸の方から歩いて来たわ。何だか難しい顔をしていました。」
「まあ、君は会わない方がいいな。変に誤解されるとまずいからね。しばらく診療所から出ない方がいいでしょう。」
「何だか、あたし、嫌な予感がするわ。何も無ければいいのだけれど。正樹さん、あたし、恐いわ。」
「心配ないよ。大丈夫だよ。」
その二日後、ホワイトサンド・ビーチの白い砂が真っ赤な血の色で染まった。外交省の特別調査室の沢田が犬のような動物によって噛み殺されているのが発見された。平和なボラカイ島に衝撃がはしった。
正樹がそのニュースを知った時、まず真っ先に岬の家のドーベルマンたちのことが頭に浮かんだ。
「早苗ちゃん、えらいことになったよ。沢田さんが殺されてしまったよ。」
「正樹さん、あたし、恐いわ。」
「浜で噛み殺されていたそうだよ。動物に噛まれた痕が見つかったそうだ。」
「犬かしら?」
「僕の想像が間違っていればいいのだが、こんなことになるなんて、・・・・・・。今は何も言うのはよそう。日本大使館からもマニラ警察からも大勢この島にやって来るだろうから、彼らが君を見たらやっかいだ。誤解されてしまう。だから外に出たら駄目だよ。いいね。僕は兎に角、岬の家に行ってみる。あれこれ考えていても、埒があかないからね。それに君が島にいることを誰にも言わないように口止めしてくる。」
「正樹さん、岬の家には行かないで下さい!一緒にここにいてくれませんか。あたし、恐いの!正樹さんがもう帰って来ないような気がしてなりなせん。ごめんなさいね、あたし、変なことばかり考えてしまって、どうか、このままあたしのそばにいてください!」
「いったい、どこの警察がこの事件を担当するのだろうか?日本の外交省の人間が殺されたんだ。ごめん。まだ殺されたとは決まっていなかったね。事故かもしれないものね。多分、マニラ東警察の署長の出番になるだろうね。」
「でも、署長さんは岬の家がなくなると困る人の一人でしょう。これからもどんどん保護されてくる日比混血児たちの置き場がなくなってしまうから。あら、ごめんなさい。あたしったら、まだこの事件と岬の家が関係があるなんて決まっていないのにね。何だか、悪い方に悪い方に考えてしまうわ。」
「僕だって、沢田さんが犬のような動物によって噛み殺されたと聞いて、すぐに岬の家のドーベルマンたちが頭に浮かんでしまったもの。沢田さんがこの島に来て一番困るのは岬の家の人々だからね。動機は十分にあると考えて当然だよ。」
「正樹さん、あたし、ボンボンが言っていた言葉が耳から離れないの。あの家は茂木さんに代わって彼がどんなことをしても守り抜くと言っていたわ。ごめんなさいね。こんなことを言えば言うほど、みんなが不幸になってしまうわね。」
「早苗ちゃん、やっぱり、僕、ちょっと岬の家に行って来るよ。憶測で話をしていても仕方がないからね。人が一人死んだんだ。やはりこのままではすまないからね。君はここにいて下さい。」
正樹はいつものようにホワイトサンド・ビーチを歩いて岬の豪邸へむかった。この浜で沢田が死んでいたとはとても信じられない、海も空も澄んでいて、まったくいつもと変わりはなかった。豪邸の下のプライベート・ビーチに着いた。階段を登って豪邸へ入ろうとすると、正樹は階段の途中にある犬小屋がなくなっていることに気がついた。昨日、ここに往診に来た時には確かにあった。ドーベルマンのジョンに声をかけたのを覚えている。沢田の死とこの豪邸の犬小屋が急になくなっていることと関係があるのか正樹にはまだ判断が出来なかった。事件に巻き込まれるのを恐れたボンボンが犬小屋を屋敷の裏に移したとも考えられる。兎に角、何も知らないふりをして屋敷の中へ入ってみることにした。
正樹が最上階のボンボンの書斎に入ると、ボンボンは机で書き物をしていた。正樹は窓のところへ行き、外を見渡した。抜けるような青い空にそそり立つ入道雲が重なり合っており、その下にはエメラルドブルーのボラカイの海が人間の営みとはまったく関係なく静かに広がっていた。正樹はボンボンから視線を外して、外の景色を見ながら言った。
「ボンボン、聞きましたか?日本人が浜で死んでいたそうですよ。」
「ああ、聞いたよ。」
ボンボンは素っ気無く返事をしただけで、二人の間には鈍い沈黙が後に続いた。ボンボンは机に向かって、また書き物を続けている。正樹は窓の外を眺めたままで、ただ時間だけが過ぎていった。ノックをする音がして、リンダがコーヒーを二つ持って部屋に入って来た。正樹はリンダに尋ねてみた。
「リンダ、犬たちはどうした?」
リンダは怯えた表情でボンボンの方を見た。ボンボンが鋭い視線を一瞬ではあったがリンダに送ったのを正樹は見逃さなかった。
「犬たちはもういないわよ。子供たちが危険だから、引き取ってもらったの。それに食費がバカにならないでしょう。」
リンダはそう答えると、さっさと部屋から出て行ってしまった。リンダもボンボンも早苗が島に来てからは正樹とは距離を置くようになっていた。一つ屋根の下で正樹と早苗が一緒に生活していることが二人には面白くなかったのだ。
しばらくすると、島で事務所を開いている弁護士が部屋に入って来た。正樹もよく道ですれ違う、その地元の弁護士にボンボンはさっきから書いていた書類を渡して、握手を求めた。二人は立ちながら、一言、二言、言葉を交わしながら部屋から出て行ってしまった。正樹一人だけが広い部屋に残されてしまった。屋敷全体に何やら重たい空気がたまっているように正樹には感じられた。茂木さんのいた頃とは大違いだった。正樹は天性のピエロ、ネトイをさがすことにした。豪邸の裏にある軍鶏たちの小屋へ行ってみたが、ネトイはそこにはいなかった。振り返り豪邸へ戻ろうとして、正樹は足を止めてしまった。明らかに何かを埋めたように地面を掘り返した跡があったからだ。ゴミをこんな場所に埋めることはないはずである。その真新しい地面の盛り上がりは正樹の悪い想像と一致してしまった。正樹は急にこの家で居場所がなくなってしまったような気がして、とても寂しくなった。仕方なく、豪邸の正面へまわってみると、さっきの弁護士が大きなカバンを抱えて、背中を「く」の字に丸めてゲートから出て行くのが見えた。弁護士がいったい何の用でボンボンと会っていたのだろうか?どんな用件だったのか正樹には知る由もなかったが、どうやら用件は済んだようであった。いつものように、子供たちを一回り診てから診療所に帰ることにした。正樹はいつの間にか、すっかり変わってしまった岬の家のことを本当に憂いていた。岬の家にとって、茂木さんの存在がいかに大きかったかということを浜を歩きながら感じていた。ボート・ステーション3まで来たところで海の方から声がした。だんだん近づいて来るボートの上から、再び自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
「正樹さん、正樹さん。・・・・・・・」
目を凝らして近づいて来るボートを見てみると、渡辺電設の佐藤が手を振りながら正樹の名前を何度も呼んでいた。その隣には渡辺社長の姿もあった。その風貌は相も変わらずでかい態度をしていた。あまり好きな連中ではなかったが、誰かと話がしたかったので、正樹はボートが浜に接岸するのをじっと待った。佐藤が荷物を頭に載せボートから降りてきた。膝まで浸かりながら海の中を歩いて、やっと小さな声でも聞こえる距離までやって来た。
「やあ、お久しぶりです。色々な事があったので、大変だったでしょう。」
正樹は返答に困ってしまった。正樹の言葉を待たずに佐藤が再び言った。
「茂木さんのお母様がこちらへいらっしゃったそうで、あの京都の居酒屋の女将さんが彼のお母様だったとはびっくりしましたよ。・・・・・・・そうだ、正樹さん、僕も茂木さんのお墓に案内してくれませんか。お線香をあげたいのでお願いしますよ。」
「ええ、いいですよ。ご案内いたしましょう。でも、この国には線香はありませんよ。」
「そうでしたね。では、お花をどこかで買いたいのですが、花屋は近くにありますか?」
「ええ、ありますよ。墓地に行く途中にありますから、寄って行きましょう。」
渡辺社長も海の中を歩いてやって来た。社長は一段と肥ったみたいで、息をハーハー切らせながら歩いて来た。しかし何故か、とても機嫌は良く、にこにこしながら正樹に向かって言った。
「いよお!お元気そうで何より。正樹さんもすっかりこの島の人間におなりになったようで、良かった良かった。君が島にいてくれるとわしも心強いよ。」
何だかこの島が自分のものになったかのような言い方には正樹は少し嫌気がさしたが我慢して愛想良く答えた。
「社長もお元気そうで何よりです。しばらく島においでにならなかったから心配しておりました。」
「いや、すまんすまん、忙しくてな。でもこの島に来るとわしはほっとするよ。やはり、わしはここが一番だな。」
正樹は社長を無視して、佐藤に向かって言った。
「佐藤さん、どうします。これから行かれますか?それとも後日、日を改めて・・・・・・?」
佐藤は振り返り、渡辺社長に伺いを立てた。
「社長、私、ちょっと茂木さんのお墓に行ってきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、行ってきなさい。わしは少し疲れたから先に岬の家に行くぞ。君の好きなようにしなさい。正樹君、ところでボンボンは岬の家におるだろうね?」
「ええ、今さっき、彼の書斎で会いましたから、まだいるとおもいますよ。」
「それじゃあ、正樹くん。わしはこれで失礼するよ。佐藤君、わしの分まで祈ってきてくれ、頼むぞ。茂木さんがいなければ、あの家もなかったわけだからな。」
社長は自分の荷物を浜に置いたまま、ホワイトサンド・ビーチを岬の豪邸の方へさっさと歩き出してしまった。佐藤は両肩に社長の荷物も抱えてから正樹に言った。
「では、正樹さん、よろしくお願いします。まずは何を置いても、茂木さんにご挨拶がしたいので、墓地へ案内して下さい。」
「荷物を一つ、お持ちしましょうか。」
「いえ、結構です。そんなに重くはありませんから、ご親切、ありがとうございます。」
「共同墓地は丘の上にあって、少し距離がありますから、私の診療所にその荷物を置いてから行くことにしましょうか。」
「そうですか、では、そうしましょうか。」
二人が診療所に着くと、早苗が待ちくたびれたように中から飛び出て来た。
「あら、佐藤さん。いらっしゃい。お久しぶりです。」
「早苗さん、外交省のお役人が何で、また、ここに?・・・・・ナミさんもご一緒ですか?」
「いえ、私一人です。それからあたし、もう外交省を辞めましたのよ。」
正樹がそこで助け船を出した。
「早苗ちゃん、これから、共同墓地へ行くけれど、君はどうする?」
「ええ、もちろん、一緒に行きますよ。」
正樹が留守の間、早苗はずっと正樹のことを心配していたのだ。早苗の表情がとても厳しかったのを見て、正樹はそのことをすでに読み取っていた。
「それじゃあ、早苗ちゃん。話は道々することにして、出かけようか。」
「ええ。」
早苗はぴったりと正樹の横について歩いた。三人は市場に寄って花束を幾つか買い、トライシクルで墓地へ向かった。
丘の上の共同墓地には風がいつも吹いており、いつ訪れても正樹はとてもすがすがしい気持ちになった。自分も死んだらここに入りたいと、来る度におもった。出来ることなら、ディーンの墓の中で一緒に眠りたかった。
丁寧な佐藤の態度には好感が持てる。墓の前で一礼する姿は実に絵になっている。とても自然で、それでいて、ちっとも嫌味がない。あたかも映画の一場面を観ているようであった。墓参りを終えると佐藤はゆっくりと二人に言った。
「実はね、社長と私が今回、突然、この島に来たのはね。ボンボンから依頼がありまして、あの豪邸をうちの会社で買い取ってくれないかと言われたものですから。」
正樹と早苗はお互いの顔を見合わせてしまった。真っ先に頭に浮かんだことは子供たちのことだった。
「ボンボンがそう言ったのですか?・・・・・・あの家を売りたいと言ったのですか?」
「ええ。そうですよ。」
「では、あそこの子供たちはどうなるのですか?・・・・・・・・それでは茂木さんの死は無駄になってしまいますよ!」
「いや、あの岬の家の子供たちはそのまま、私たちが面倒をみることになっています。それは心配しないでください。私たちも全力で茂木さんの崇高な意思を守り続けるつもりですから。今も彼のお墓にそのことを誓ったところです。子供たちは私が守ります。」
「佐藤さんのことは僕も信用しますが、あの肥った・・・・・・・・。」
早苗がすぐに正樹の袖を引っ張って、正樹の言葉を止めた。早苗が言った。
「それを聞いて、あたし、少し安心いたしました。でも、何でまた、ボンボンはあの大切な家を、突然、売る気になったのでしょうか。」
「それは私にもよく分かりません。」
「さっき、僕が岬の家に行った時には、彼は何も言っていませんでしたよ。そんな大切なことを何で言ってくれなかったのでしょうかね。まあ、訪問客がありましたからね。でも、その前に十分に時間はあった。彼はいったい何を考えているのでしょうかね。時々、ボンボンのような天才のすることが僕のような凡人には理解が出来なくなります。」
「彼はとても急いでいましたね。子供たちを追い出さないことが唯一の条件でかなりの破格な値段を提示してきましたよ。」
「それでいったい、幾らで話がまとまったのですか?」
「4億円です。あの豪邸ならば、10億円は下るまいと、役員会全員一致ですぐに会社の投資対象として決まりましたよ。即決でしたね。特に社長は大喜びですよ。」
「4億円ですか。・・・・・・・・・・・」
正樹は茂木があの豪邸をホセ・チャンから5千万円で購入したことを知っている。その後、いろいろな経費や増築した費用を含めても1億円には達していないだろう。4億円でボンボンはあの豪邸を渡辺電設に売ろうとしている。4億円の大金をボンボンは黙って手にすることになる。いくら渡辺電設という会社が日比混血児たちの世話を引き継ぐとしてもだ。茂木さんが命をかけて残してくれた大切な子供たちの家を簡単に売り渡すとは、とても正樹には許せることではなかった。あの家の資産価値はさっきも佐藤さんが言っていた通りに10億円以上は間違いなくあるのだから、子供たちに残すべき資産をボンボンが勝手に売り渡すことはやはり許せることではなかった。正樹は頭が混乱してしまって、もうこれ以上、佐藤と話す余裕がなくなってしまった。共同墓地を出て通りに出ると、待たせてあったトライシクルがエンジンをスタートさせた。三人は診療所に向かった。途中、正樹は一言も口をきかなかった。診療所に着くと、佐藤の荷物をそのトライシクルに積み込み、正樹はドライバーに岬の家まで佐藤を運ぶように指示を出し、そのまま黙って診療所の中に入ってしまった。佐藤には墓参りのお礼すら言わずに引っ込んでしまった。早苗が正樹に代わって丁寧に佐藤にお礼を述べた。佐藤は早苗に墓参りのお礼を正樹に言ってくれるように頼んで、岬の家に向かって走り去っていった。
診療所に入ってからも、正樹は早苗に対しても黙ったままだった。言葉がみつからなかったのだ。早苗がそっと温かいコーヒーを入れてやると、やっと正樹は落ち着きを取り戻した。
「早苗ちゃん、ボンボンは沢田さんを殺して大金を持って逃げるつもりなのだろうか?さっき岬の家に行った時に、僕は見つけたんだ!豪邸の裏庭に犬たちを埋めたような跡があった。」
ボンボン
日本外交省の特別調査室の沢田が死体で発見されてから1週間が経った。いっこうに警察当局は島に来て捜査する気配はなかった。徹底した報道管制が布かれているらしく、この事件に関するニュースはまったく流れなかった。政府間で、それもかなり高いレベルでの取引が行なわれているようだった。
渡辺電設の支配下にあるマニラの合弁会社、渡辺コーポレーションが岬の家の新しい所有者となった。マニラから二人の社員が岬の家に送り込まれてきていた。
ボンボンは大きな台風がボラカイ島を通過した翌日に島を去った。島を離れる前に菊千代とネトイを一人ずつ書斎に呼んで最後の別れをした。
「菊ちゃん、ここに一億円の小切手があります。このお金は君と君の子供の為に使って下さい。渡辺さんは君らがここに残ることを、もちろん承諾しています。だから君らがここにいたければ、いつまでもいることは出来ますよ。何の遠慮もいりませんからね。君と君の息子がこれからもこの屋敷で暮らすことは正式に文章で許可されています。島の弁護士のところにそのことが書かれた契約書があるから、誰が何と言っても心配しなくていい。もちろん子供を連れて京都に戻ることも君の自由です。」
「ボンボン、いろいろと有り難う。あなたはどうするの?」
「菊ちゃん、僕は茂木さんや君たちとめぐり逢えたことを神様に感謝していますよ。僕は人間にとって何が一番大切なのかということあなたたちから学びました。この島でわずかの間だったけれど一緒に過ごせたことを誇りにおもいますよ。それから渡辺さんはこの家の日比混血児たちのことも、これまで通り面倒をみると約束していますからね。そのことも弁護士のところにはっきりと文章で記録されています。」
「ねえ、ボンボン。あたしの質問にちゃんと答えていないわよ! ボンボンはこれからどうするつもりなのよ?」
「僕は近々、マニラの署長のところへ行くつもりだ。日本政府に1億円を返却するつもりだからね。それから浜で死んだ沢田さんの家族にも1億円を届けてもらう。そして、その後、自首するつもりだよ。署長には既にそのことは伝えてある。いろいろと整理をする為に時間をもらった。幸い、日本政府も問題を大きくはしたくないとのことでうまく話がついた。」
「自首するって、沢田さんは犬か何かの動物によって噛み殺されたのでしょう。何でボンボンが自首するのよ。」
「君も薄々は分かっていただろうが、沢田さんを殺したのはうちの犬たちだよ。だから僕の責任なんだよ。」
「違うわ、それなら、それは事故じゃないの。ボンボンの責任ではないわ。」
「菊ちゃん。僕はこの家を守らなくてはならない。この家の子供たちを守らなくてはならないんだ!日本政府がこの家に踏み込んで来る前に解決したかった。だから取引に応じたんだ。」
「でも、ボンボン、あなたの責任ではないわ。」
「菊ちゃん、もういいんだよ。君たちはしっかり生き抜いて下さい。」
「ボンボン、駄目だからね!まるで死ぬ為に行くみたいだわ。絶対に駄目だからね。あんな悲しいことは茂木だけでたくさんだからね!」
「分かっているよ。全力で最後までやってみるから、僕のことは心配しなくていい。菊ちゃん、悪いけれど、ネトイに部屋に来るように言ってくれないか。」
「分かりました。ネトイを呼んできます。ボンボン、死んだら駄目ですよ!」
ボンボンは軽くうなずいて見せた。しばらくすると、弟のネトイが一人で部屋に入ってきた。
「ネトイ、そこに座りなさい。」
ボンボンは机の上に菊千代と同じ様に1億円の小切手を置いてネトイに見せた。
「ネトイ、この1億円はお前に預ける。この家の子供たちの為に使え!いいな。それから、お前はマニラの渡辺コーポレーションの重役として迎えられることになった。佐藤さんの下で働くことになったが、しっかりこの家を守っていってくれ。」
ネトイは何も言わなかった。ただ、黙ってボンボンの話を聞いていた。
「お前も渡辺コーポレーションの副社長の地位になるのだから、少しは着るものにも注意しておくように、いいな。俺はこれから、マニラの署長のところへ行く。いいか、後は頼んだぞ!子供たちを守ってくれ、任せたぞ!」
最後の別れの言葉を聞かされても、ネトイは黙ったままだった。 ボンボンは次に正樹と早苗のいる診療所に行くつもりだった。しかし、警察のヘリコプターがボンボンを迎えに来てしまって、そのまま連行されてしまった。
正樹と早苗は沢田が死んでから、いつまで経っても捜査が行なわれなかったことを不思議におもっていた。正樹が子供たちの往診の為に岬の家に行っても、誰も口を開かなかったし、ボンボンの姿を見つけることも出来なくなってしまっていた。
リンダは苦しみと悲しみの中をさ迷い歩いていた。どうしたらよいのか分からないまま、何日も過ごしてしまっていた。だが、堪えきれずに、リンダは正樹がいる診療所に行くことを決心した。リンダは夢中で走った。
泣きながら診療所に入って来たリンダを正樹と早苗は待合室の長椅子に座らせて、少し落ち着くのを待ってから、話を聞いた。
「ボンボンは警察に連れて行かれてしまったわ。違うの!ボンボンじゃないの!あたしなの!犬たちに餌をあげようとして、犬小屋を開けたら、三頭の犬たちはあたしの脇をすり抜けて、草むらに隠れて何かを調べていた沢田さんに飛びかかったの。沢田さんはナイフを持っていて、最初に飛びかかったジョンの喉を切り裂いてしまったわ。それで残った犬たちは狂ったように沢田さんに食らいついたの。結局、犬たちは全部殺されてしまったわ。沢田さんはよろよろと立ち上がってビーチの方へ歩いて行ってしまったの。だから、ボンボンじゃないのよ。あたしなの。あたしの為に、ボンボンは・・・・・・・・。」
リンダは泣き崩れてしまった。早苗がリンダの肩を抱きしめた。リンダは早苗の胸に顔をうずめて大声で泣き出してしまった。正樹はもう一度頭の中でリンダの話を整理してみてから言った。
「それは事故だよ!誰の責任でもないよ。事故だ。しかし、ドーベルマンを3頭もナイフ1本で殺すとは凄いね。沢田さんはただ者ではなかったようだね。」
「沢田さんは武道家としても、かなり名は知られていたわ。」
「でも、結局、出血が止まらなかった。そのままビーチまで歩いて行って、そこで倒れてしまった。」
「そうね。やっと、謎が解けたわ。」
「ちょっと、僕、マニラへ行ってくる。署長によく説明してくる。リンダ、君の責任ではないからね、もう泣かなくてもいいよ。みんなによく説明してくるから。そうだ、しばらく、早苗さんとここにいるといいよ。」
リンダはうなずいただけで言葉は出なかった。
正樹は迷うことなく、市場の魚屋に向かった。千代菊の旦那のハイドリッチに船を出してもらう為だ。飛行場のある隣の島まで渡るのに、それが一番早いとおもったからだ。ハイドリッチは嫌な顔一つせずに船を出すことを快く引き受けてくれた。彼は店番を千代菊に任せて、すぐに二人で浜へ向かった。
正樹は手遅れになる前に、早くマニラに着きたかった。茂木さんがあの家を守ったように、あるいはボンボンは日本政府と裏取引をしたのかもしれない。もう獄中での別れは茂木さんとディーンの二人だけでたくさんである。何とかボンボンを止めなくてはならない。急がなければ、普段ならばボラカイの海を渡る時は、ボートはもっとゆっくり進めばよいのにとおもう。それだけ長い間、美しさを堪能出来るからだ。だが今日は別だ。正樹は一分一秒でも早くマニラに到着したかった。
まずカティクランの飛行場に行ってみた。しかし、もうフライトはなかった。船着場に引き返し、白タクを捜した。お金を出せば誰でもカリボの空港までは車を出してくれる。その日も簡単に車はみつかった。カリボの空港でもすべて飛行機は飛び去った後で、小型機を含めてすべてのフライトの予定はなかった。残された道は船に乗るしかなかった。どんな船でもよかった。マニラへ行く船をさがさなければ、正樹は祈りながら港を歩き回った。やっと貨物船が一時間後に港に寄って、すぐにマニラへ向けて出航することをつきとめた。それに乗れば、明日の朝にはマニラへ着ける。正樹は貨物船の到着をじっと埠頭に座って待った。海は暗く悲しみに満ちていた。暗い海を見つめながら正樹は考えていた。きっとボンボンは捜査当局と何らかの取引をしたのに違いない。流用された日本外交省の公金と沢田さんの死への賠償金を持って自分が出頭する代わりに岬の家を存続させることを願い出たのに違いないと正樹はおもった。
少し遅れて到着した貨物船には問題なく乗船することが出来た。何故なら、その貨物船の乗組員の一人が岬の家の出身者だったからだ。以前、正樹がマニラの警察から彼の身柄を引き取り、岬の家に連れて行った混血児だったからだ。こうして様々なところで岬の家を巣立って行った子供たちが働いていることはとても嬉しいことであった。
正樹を乗せた貨物船は予定よりも、かなり早くマニラ港に着いた。船長たちのおもいやりを感じながら正樹は船を後にした。ピエールから警察署までは珍しく渋滞もなかった。
正樹が署長室に駆け込むと、署長は座ったままでじっとしていた。いつものように立ち上がって握手を求めてこなかった。
「正樹君、すまん。私の力ではどうにもならなかった。」
署長は深々と頭を下げた。正樹は署長の次の言葉を待った。
「ボンボンは死んでしまったよ。茂木さんと同じ様に自分で命を絶ってしまったよ。」
何故だ、何故、みんな、そんなに自分の命を粗末にするのだ。正樹は心の中でそう叫んだ。そして署長に言った。
「署長、違うんだ。あれは事故だったんだ。岬の家の者が犬たちに餌を与えようとして、犬小屋の扉を開けたところ、犬たちは草むらに隠れていた沢田さんを見つけた。3頭のドーベルマンたちは忠実にも不法侵入者に向かって突進したんだ。沢田さんは持っていたナイフで犬たちを次々と殺した。しかし、戦いの途中で噛まれた傷口からの出血がひどくて、浜まで来たところで力尽きてしまった。だから、あれは事故だったんだ。」
「正樹君、すまん。遅かったよ。」
「駄目だ。そんなの駄目だよ。みんな、何でそんなに死に急ぐのですか。生き続けることが大事なのに!命をつなぐことが大切なのと違いますか。」
日本政府は岬の家の徹底的な調査と死んだ沢田さんの遺族への保証、それに犯人が見つかった場合、厳罰に処することを要求していた。署長の力ではどうすることも出来ない高度な政治判断でこの事件は秘密裏に素早く処理されてしまった。それでもボンボンの出頭と署長の努力で何とか岬の家はこれからも増え続ける日比混血児たちの為に残す方向で結論が出た。ボンボンはマニラに連行されると、すぐに非合法的に重い刑が確定した。日本政府への配慮がそこにはあった。しかし、ボンボンは一切弁明はしなかった。それどころか、茂木さんがとった方法を彼も選んでしまった。
ボンボンの死でもって岬の家に対する調査は完全に打ち切られた。流用された公金は全部で7千万円だったのだが、ボンボンは死ぬ前に署長を通して1億円を日本政府に返還していた。国際問題化した日本外交省の公金流用事件はこうして多くの自殺者を出して、やっと解決した。 ボンボンの死はまったく新聞やテレビでは報道されなかった。岬の家はボンボンに代わって渡辺コーポレーションが所有することになった。
ネトイもリンダから正樹がマニラへ向かったと聞いて、その日の夜遅くにマニラ東警察署に顔を出した。ネトイが到着した時、正樹はまだ署長室でがっくりとうなだれていた。署長とネトイは初めてである。受け付けの警官に案内されて部屋に入って来たネトイに向かって署長は言った。
「君がボンボンの弟さんですか。大変、残念なことだが、君のお兄さんはお亡くなりになりました。本当にお気の毒なことをしました。岬の家の関係者にとっては悲しみであるとともに大きな損失であります。ご家族の方々には心からお悔やみを申し上げます。」
ネトイは黙っていた。あの陽気な、天性のピエロが何も言わずに兄のボンボンの定めと向き合っている。正樹はネトイの代わりに、また泣いてしまった。署長が続けた。
「ボンボンさんは茂木さんと同じ様に岬の家を守るために自分の命を犠牲にしてしまいましたよ。徹底的な調査が入る前に、まず浜で死んだ沢田さんと言う日本外交省の調査員の遺族に対して十分な賠償をしました。それから、これは私の推測なのですがね、茂木さんが使ってしまったとおもわれる日本外交省の公金も利息をつけてそっくり返してしまったようです。」
正樹がネトイに代わって聞いた。
「それで日本政府はどうしたのですか?」
「日本政府は今回の事件を公にはしたくなかったようですね。しかし、岬の家の徹底的な調査と沢田さんを殺した犯人への厳罰を強く要求してきました。これは一歩も譲りませんでした。ボンボンはすべての責任は自分にあると言い張って、処分が決まるのを待たずに、そのまま、留置所で自害してしまいました。」
悲しみのうちに、正樹が誰にともなく言い捨てた。
「馬鹿だよ!茂木さんもボンボンも、二人とも簡単に命を捨て過ぎる。あきれるくらいに馬鹿だよ。」
今度はネトイに向かって正樹が言った。
「さっきから涙が止まらないんだ。まったく男のくせしてだらしがないだろう。ネトイ、お前は強いな。」
兄の死を知っても、冷静なネトイが言った。
「正樹、俺は兄貴が連行される前に、部屋に呼ばれてすべてを聞かされていたよ。その時に、こうなることは分かっていた。兄貴も茂木さんのように、とうとうサムライになっちまったな。」
「違う。」
正樹がネトイに向かって怒鳴った。
「茂木さんもボンボンもサムライとは違うぞ。確かにサムライは主君や彼らの理想の為に命を惜しまない。勇敢であっぱれな死に方を美徳とするけれど、主君や理想の為ならば、平気で他の者を傷つけたり、殺したりする。そこが違うんだ!精神の根底にある自己犠牲は共通しているけれど、茂木さんやボンボンは他人を傷つけたりはしなかった。僕は初め、ボンボンが岬の家を守る為に沢田さんを殺したとおもっていた。その事でどんなに多くの子供たちが救われたとしても、人を殺してまで岬の家を存続させる意味はないとおもっていたんだよ。だからボンボンに失望していたんだ。ところが、それは間違いだった。沢田さんの死が事故だと知って、僕はボンボンを疑っていた自分を恥じた。だから、僕は彼に会って謝りたかったんだ。でも、もう、それも出来なくなってしまった。こんなに悲しいことはないよ。」
平然として立っていたネトイがやっと椅子に座って言った。
「あれは事故だったのか。今、正樹はそう言ったよね。では何故、兄貴は俺に事故だと言わなかった。何故、自らの命を犠牲にしたんだ。」
二人の話を黙って聞いていた署長が今度は言った。
「ボンボンさんは頭の良い人でしたね。日本政府や外交省、それに我が国の政府や警察の動きをすべて計算していた。完璧にわしらの動きを読み取っていたんだ。沢田さんの件が事故であろうとなかろうと、ボンボンさんは極刑を免れなかったとわしはおもう。それに岬の子供たちや既に巣立って行った子供たちに彼は自分の死でもってメッセージを示したかったのに違いないとわしはおもうよ。死刑にされるのと自害するのとでは子供たちに与える影響は大違いだからね。」
「でも、署長、ボンボンが死刑になる可能性はそんなに高かったのですか?」
「ああ、残念だが、そうだった。国の面子が絡んでしまったからな。」
「不完全な人間が不完全な人間を裁くなんてまったくナンセンスですよ。僕は医者ですからね。死刑は絶対に反対ですよ。今回の場合は事故だった。よく調べもしないで!それじゃあ、法律も何もないじゃないですか。岬の家の敷地内に不法に侵入したのは沢田さんの方だ。警察は上からの指示があると、簡単に人を逮捕して、死に追いやることが出来るのですか?」
「正樹君、すまん。わしの力が足りなかったのだよ。この通りだ、本当に申し訳ない。」
「正樹、やめろ!もういい!帰ろう。」
正樹はネトイに引っ張られながら、署長室を出た。二人は警察署の正面玄関に待機していたタクシーに乗り込み、ケソン市のアパートへと向かった。タクシーの後部座席に並んで座った二人だったが、お互いの国籍は違っていたけれど、二人は兄弟そのものであった。言葉にしなくても、お互いの気持ちが理解出来るようになっていた。
「ボンボン兄さんは俺に渡辺コーポレーションの副社長の地位を残していってくれたよ。佐藤さんの下で働くことになった。」
「そうか、それは良かったな。渡辺社長と違って、佐藤さんはなかなかの人物だと僕はおもうよ。岬の家は渡辺コーポレーションの下に組み込まれたのだから、今度はネトイ、お前があの家のリーダーだ。ボンボンに代わって岬の家を守っていくということだな。いいか、命はそう簡単には捨ててはならないぞ。お前まで死んでしまったら、僕は独りぼっちになってしまうからな。」
「大丈夫だ、俺は死なないよ。」
揺れる車の中で、正樹はボンボンと初めて会った北海道の中山峠のことを思い出していた。身の丈以上も積もった雪の中山峠の冬景色が昨日のことのように浮かんできた。ボンボンとの出会いがすべての始まりだった。その昔、日本を追われたキリシタン大名の高山右近が病と戦いながら何日も船に揺られて、やっとたどり着いた南の国に自分も今こうして来ている。運命とは不思議である。ボンボンや茂木さん、そしてディーンは自分に彼らの生きざまを鮮やかに示した。彼らの命は実に短かったけれど、激しく燃え上がって尽きた。この世の中には誰一人として良い人間なんていやしない。みんな自分勝手で利己主義で我がまま勝手に生きている。それが本当の人間の姿なのだ。ところが正樹が知り合った、この三人は死ぬ瞬間には完全に人間ではなくなっていた。もし神というものが存在するのであるならば、この三人は限りなく、その神に近づいていたと言える。
車はパコ駅の前を通り過ぎようとしていた。タクシーの運転手が後ろを振り返り、正樹に言った。
「お客さんは日本人かね? ほら、すぐそこに、日本人の銅像が立っていますよ。お侍さんの銅像ですよ。」
「運転手、ちょっと車を止めてくれるか。」
正樹は車から一人で降りて、運転手が言っていた銅像の前へ行ってみた。銅像の下にはこう記されてあった。
「高山右近」
正樹は銅像を見上げて、ぼそっと呟いた
「南の国に来た。右近さんか。」
葬儀
岬の豪邸の広い庭には幾つも大きなテントが張られ、建物に収容出来ない子供たちを南国の強い日差しから守っていた。子供たちと言っても、もう立派に成長して、この家を巣立っていった者たちである。ボンボンの訃報をどこからか聞きつけて世界中から集まって来ていた。その数は既に大きく千人を上回っていた。そしてまだ、ボンボンの葬儀に参列しようと、全国から集まり続けていた。ボンボンの棺には5時間ごとにドライアイスが入れられてはいるが、もう遺体の腐敗が始まってきていた。ネトイが医者の正樹に聞いた。
「もう、兄さんは限界ですかね。それに集まってきている者たちも少し苛立ってきているようです。そろそろ葬儀を始めないと暴動にでもなりそうだ。」
「まだ、ボンボンは大丈夫だよ。しかし、これだけ人が集まれば、何か起こっても、ちっとも不思議ではないな。どうだろう、葬儀はあさってにしては、やるやらないは別にして、そう皆に伝えておいた方が無難だろう。まだやって来る人の勢いが止まらないから驚くな。凄い数だよ。まあ、それだけ子供たちがこの家を巣立っていったということなのだから、嬉しいことじゃないか。家族を一緒に連れて来ている者もいるな。ネトイ、お前がボスなんだから、お前が決めろよ。皆もそれぞれ生活もあることだし、これ以上経つと、何だかんだと問題は起きてくるぞ。」
「もうすでに、小さないざこざは起きてしまっているんだ。では、あさってにしましょう。葬儀はあさってということで準備させます。」
「そうだね、それがいいかもしれない。」
二日後、ボンボンの葬儀は朝の涼しいうちに行なわれた。式の後、ボンボンの棺を先頭に教会への長い人の列ができた。そして教会での神父様のお祈りが終わり、今度は丘の上の墓地まで、ボラカイ島の住人も加わり、長い行列ができた。埋葬が済み、警察隊が整列して一斉に空に向かって発砲した。ボンボンの葬儀はその銃声ですべてが終わった。敬礼をしたままの署長にネトイは近づき、丁寧にお礼を言った。
「有り難うございました。素晴らしい葬儀になりました。きっと死んだ兄も喜んでいることとおもいます。」
敬礼していた手をゆっくりと下ろしながら、署長は新しい岬の家の代表者であるネトイに向かって言った。
「お兄様はご立派でした。自分の命を張って、岬の家を守ったのですからな。この集まってきた者たちの顔を見てください。皆、立派になって、マニラの裏道でゴミを拾って生きてきた子供たちですよ。茂木さんやボンボンさんがいなければ、皆、通りで野たれ死んでいたかもしれない。私は彼らと出会えたことを神に感謝していますよ。ネトイさん、今度はあなたが皆を引っ張っていく番だ。いいですか、何かお困りの時は遠慮なく言ってくださいよ。一人で悩まないで、相談してください。それから、あなたの命は、どうか大切にしてくださいよ。」
「有り難うございます。」
「それでは我々は、これでマニラに帰ります。ヘリを呼びましたので、岬の家には寄りません。ではこれで失礼します。さっき言ったことを忘れないでくださいよ。独りで悩まずに何でも相談してください。いいですね!」
「分かりました。いろいろ有り難うございました。」
大きなプロペラ音が幾つも聞こえてきた。ボラカイ島の共同墓地の外の空き地にヘリコプターが5機到着して、警察隊は素早くその中に乗り込み、署長を乗せたヘリから順番に島を離れて行った。それを見ると、集まっていた人々は思い思いに丘の上の墓地から下りて行った。二人の鋭い顔つきの青年だけは帰る気配はなかった。ネトイと早苗、そして正樹の三人だけは最後まで墓地に残った。早苗が二人の鋭い視線に気がついた。
「あの子たちは岬の家の出身者ですか?」
ネトイと正樹が同時に答えた。
「ああ、そうですよ。」
ネトイが早苗に言った。
「あの二人はよく覚えていますよ。いろいろ問題を起こしましたからね。性格も残酷なところがあった。」
今度は正樹が言った。
「確か、ほら、右側のトニーは岬の家に来る前に人を何人か傷つけていると、署長が言っていたのを思い出した。左のダニーはいつもトニーと行動を共にしていたよ。」
早苗が怯えながら言った。
「さっきから、ずっと、あたしたちのことを見ているわよ。目つきが凍っているわよ。気味が悪いわ。」
「でも、根は悪いわけではないんだ。岬の家のことは彼らも感謝しているはずだよ。現にこうして、ボンボンの葬儀にも参列していたしね。」
とうとう、墓地には5人だけが残った。トニーとダニーはあたりを何度も見回しながら、正樹たちのところに近寄って来た。トニーがネトイにボンボンのお悔やみを丁寧に言った。その後、正樹も前に来てこう言った。
「正樹先生、先生にお願いがあります。仲間が病気なんだ。具合があまり良くない。助けてやってはくれませんか。」
正樹は医者だ。正樹は無条件ですぐに答えた。
「それは構わんが、その仲間は今どこにいるのだ?」
「あしらのアジトです。コレヒドール島にいます。」
「あのコレヒドール島か?第二次世界大戦の激戦地だったコレヒドール島か?」
「そうです。」
「何故だ。コレヒドールはマニラ湾の入り口にある島だろうが。島に近いマニラ首都圏には幾らでも医者はいるだろうが、何故、俺に頼むのだ。」
「先生にしか頼めないんだ。」
早苗はその場の雰囲気が異常であることを真っ先に感じていた。トニーとダニーの身体からは正樹に有無を言わさぬ、一種脅迫めいた殺気がみなぎっていた。
ボンボンの葬儀は完全に終わり、共同墓地には墓守以外は誰もいなくなってしまった。しばらく墓の前でトニーたちの話を聞いていたが、早苗が次第に怯えてきてしまったので、
正樹はネトイに早苗のことを頼み、先に帰した。この島で最も安全な場所である岬の家にしばらく彼女を預かってもらうことにした。正樹はトニーとダニーと話をしながら、さっきボンボンの棺が運ばれてきた道を今度は逆に自分の診療所に向かって歩き出した。彼らがどんなグループに加わっているのかは分からなかったが、トニーとダニーがゲリラであることは明白だった。
ルホ山
ボラカイ島の最高峰、マウント・ルホ。 山と言っても、そんなに高い山ではない。トライシクルで15分もあれば、見晴台のある頂上付近にたどり着いてしまう。途中の急勾配では馬力のないトライシクルだと、運転手だけ乗せて、乗客は歩かなくてはならないから、もう少し時間がかかってしまう。そしてルホ山の見晴台からはボラカイ島をぐるりと見渡せる。ホワイトサンド・ビーチは反対側でそこからは見えないが、それでも十分に素晴らしい眺めである。その見晴台は手作りの簡単なやぐらだけれど、そこに立った者は生涯その眺望を忘れることはないだろう。それほど美しい眺めなのである。幾重にも入り組んだ小さな浜の前には美しい海がまるで虹のように幾つもつながって、全体で一つの雄大な景観をつくっている。また首を伸ばしてすぐ下を見下ろせば、底の底まで透き通って見える海が広がっている。まるで空と海の真ん中にいるような、そんな錯覚を起こしてしまう。ルホ山にしばらくいると、誰もが何か得をしたような気分になってくるから不思議だ。観光客にもあまり知られていないこともルホ山を特別なものにしていた。
昼をだいぶ過ぎた頃、トニーとダニーに連れられて正樹はルホ山に来ていた。彼らのこの島のリーダーに会うためだった。自然発火した白い煙が立ち上っているゴミ捨て場を少し過ぎたあたりで、三人はトライシクルを降りた。何の変哲もない、ただブロックを積み上げただけの小さな民家に入ると、一人の老人が簡易ベッドに座っていた。よく日焼けをした、その顔にはシワが深く刻み込まれていた。老人は正樹に言った。
「正樹先生、あなたのことは、あなたがこの島に来た時から、よく知っていますよ。診療所を開いた時には、わしらは革命税を徴収しに行こうとしたんだ。ところが、村の者から反対があった。あんたは診療報酬を貧しい者から取っていないと聞かされてな、おまけに革命税はとってはならないと上からの指示もあった。だから、わしは先生には会いに行かなかったのですよ。」
「革命税ですか、聞いたことがありますね。ゲリラの資金源ですね。払わないと襲うと脅し、弱い者から集めていくお金のことですね。」
「まあ、いい。少し意味が違うが、そういうことにしておこうか。ここにいるトニーたちはあんたのことを信用しておるようだが、わしは日本人は誰も信用はしないよ。」
正樹は少し怒ったように言った。
「それで、今日は私に何の用があるのでしょうか? トニーの話では誰かを助けて欲しいとのことでしたが。」
「これは失礼した。どうぞ、そこにおかけ下さい。お忙しいところを、わざわざおいでいただいて、まことに恐縮でした。失礼の数々、お許し下さい。」
正樹はこの時、老人の片足がないことに気がついた。
「さきほど、日本人は誰も信用しないとおっしゃいましたが、あの戦争を体験された方なら、そうおもうのは当然だと私もおもいますが、」
老人はしばらく間を置いてから、ゆっくりと話し出した。
「もう、あの戦争のことを語り継ぐことが出来る者は少なくなった。皆、年老いて死んでしまったからな。この島ではしっかりと話せるのはわしだけになってしまったよ。」
「すると、あなたはこの島で、あの大戦を経験されたのですか?」
「いや、わしはバタンガスで生まれてバタンガスで育った。この島へはお前さんが来る少し前に配属になった。」
「配属と言いますと、あなたもトニーたちと同じゲリラの一員なのですね。」
老人はそばにあった杖を引き寄せて立ち上がった。左足は腿の真ん中からなかった。義足はつけていない。ズボンを紐で縛ってちょん切ってあった。老人は立ち上がると窓の外を一度見てから、振り返って正樹に向かって言葉を続けた。
「この足は日本刀で切られたんだ。それもわしの部下にな。部下といっても、彼はまだ15才の少年だった。わしらは太平洋戦争の末期にマニラから敗走して来た日本軍によって捕らえられた。散々拷問を受けたよ。あの時はわしらゲリラの方が優勢だった。日本軍はバタンガス地方で血眼になってゲリラの掃討作戦を繰り返していたが、アメリカ軍も戻って来ていたし、もう日本軍の敗北も時間の問題だった。だけど、そんなことは誰も知らなかった。兎に角、殺すか殺されるかのどちらかだった。明日のことを考える余裕などはなかった。」
「あなたの部下があなたの足を日本刀で切ったと、さっきおっしゃいましたよね。」
「ああ、そう言ったよ。わしの部下だった少年は散々拷問を受けた上に、奴らの日本刀を渡されて、わしの足を切ったら開放してやると言われたんだ。だから、わしも切れと命令した。わしの足を切った後、その少年はつばをかけられ、散々、さげすんだあげくに撃ち殺されてしまったよ。わしはその場にそのまま放置された。仲間がわしを見つけ出してくれてな、わしは助かった。」
正樹は何も言えなかった。片足の老人は話を続けた。
「バタンガス地方では、自分たちの身を守ろうとして、日本軍は無差別に村々を焼き払っては老若男女を問わずに、ゲリラ掃討作戦の名目で村人を皆殺しにしたよ。戦争だからお互いさまなのかもしれないが、バタンガスは地獄だった。」
正樹が口を開いた。
「土足で勝手に他人の家に入って来たような日本軍には何の正当性もありませんよ。すべての責任は日本軍にあります。どんな理由をつけようとも侵略した方が悪い!」
「ほー、正樹先生は本当にそうおもっておられるのか、・・・・・・それは、それは。」
「岬の家の子供たちも、日本人の身勝手な行動から生まれてきた犠牲者ですから、ある意味では、この国では、まだ戦争は続いているのかもしれませんね。でも、私は医者ですからね。この世に生まれてきた者は誰であろうと、選ばれて生まれてきたのだとおもっています。そしてその命を守りつないで行くことに大きな意味があるとおもっています。」
「まあ、確かに、子供は神様からの授かり者だからな、どんな生まれ方をしようと、生まれてくるべきして生まれてきたんだとわしもおもう。さっき先生が言っていたが、岬の子供たちは犠牲者だといったが、それは間違いだな。人にはみんな生まれてきた理由があるんだ。生きる価値が必ずあるものだよ。」
正樹はその通りだとおもった。老人は再び椅子に腰を下ろしてから話を続けた。
「正樹先生よ、わしの命はもう残り少ない。先生にあの時のことを話しておこうか、誰かが語り継がなくてはならないことだから、先生にも聞いてもらおうか。そこにいるトニーたちはもう何百回となく聞かされて、もううんざりしているようだが、このフィリピンはスペインの植民地になり、そしてそれを譲り受けたアメリカが支配者になった。それを日本軍が解放してやったというのは勝手な言い訳だな。スペインもアメリカもわしは嫌いだった。それでもな、日本軍のように徴発と称して食物や物を、あげくのはてには人間までも略奪はしなかった。その点だけは日本軍よりはまだましだったかもしれないな。スペインは教会を造ったり、基礎的な町づくり、海外との交易の道を開いたし、アメリカは学校を建てたり、道路もつくった。自治国として主権をわしらに与えようともしたからな。日本軍が侵略して来た時、わしらゲリラはマッカーサーと手を組んで戦ったよ。マッカーサーがコレヒドール島からさっさと逃げた後も、わしらはわしらの祖国の為に戦い続けた。」
老人はベッドの下から冷えていない缶ビールを二つ取り出し、その一つを正樹に差し出した。正樹にはまだ午後の診察があった。
「私は結構です。まだ診察が残っていますから。」
老人は表情を一つも変えずに、一人で缶ビールの栓を引き抜き、窓のほうへ歩いて行った。正樹が見ていると、老人は缶ビールを持った手を窓の外に突き出し、缶の中のビールを半分位たらたらと捨てた。そして残ったビールの中に自家製の強いココナッツ酒を注ぎこんで、一気に胃袋に注ぎ込んだ。何もビールを捨てることはないだろう、後でまた混ぜて飲めばいいのにと正樹はおもった。老人は二度大きく息を吸ってから、また話し出した。
「バタンガスはひどかったよ。わしらゲリラと日本軍は壮絶な戦いを繰り広げた。あれは地獄だったよ。昔から、バタンガスの者たちは勇敢な民族として国中に知られていたが、それを実証することになった。民族のプライドもあって、決して後には引かなかった。日本軍にしてみれば、まったくの計算違いだったわけだ。だから、奴らも血眼になって向かってきた。ゲリラの襲撃をうけて、日本軍は容疑者を逮捕し、尋問、拷問を繰り返した。お互いの心の中には憎悪の連鎖が生まれてしまった。報復が報復を呼んだ。
そのバタンガス地方にルンバンと言う村がある。わしはそこの生まれだ。日本軍はルンバンの村を占領すると、ゲリラと村人を区別するために通行許可証を発行するとお触れを出した。通行証を手渡すという理由で、すべての村人を小学校の校庭に集めたんだ。なあ、正樹先生よ、そこで何が始まったとおもうね。」
老人はゴクリとアルコールをあおった。正樹はもちろん、何も言えなかった。老人は吐き捨てるように言葉を続けた。
「日本軍はもうその時はゲリラと一般住民との区別がつかなくなっていたから、男も女も、年寄りも子供も、誰であろうと皆殺しにする作戦に切り替えていたんだ。殺すか殺されるかのどちらかだったからな。いいか、先生、日本軍は校庭に集まったルンバンの村人に通行証を渡すからと言って、数人ずつ連れ出して、両手を縛り上げ、後ろから銃剣で突き刺したんだ。そして谷川にどんどん投げ捨てていった。なあ、正樹先生、何で奴らは銃を使わなかったか分かるかね。それは銃声を聞いて校庭で順番を待っている村人が逃げないようにするためだよ。ルンバンの村人のほとんどがその時に命を失ってしまったよ。千五百人以上が虐殺された。わしはその時はこの足を切られて、他の村で治療をしていたから、またしても命拾いをしたわけだ。」
老人は日本軍が先の大戦で犯した犯罪を正樹に伝えようとしていた。正樹も真剣に話を聞いていた。悲しい過去の史実を全身全霊で受け止めようとしていた。老人は強い酒を今度はビールで割らずに飲み干した。少し酔ってしまったのだろうか、また同じことを繰り返し始めた。
「なあ、先生、何で銃を使わずに銃剣で刺し殺していったのか分かるか。そうだよ。村人がその音を聞いて逃げないようにするためだった。あるいは銃弾を使うのがもったいなかったのかもしれないな。日本軍はかなり追い詰められていたからな。戦局は完全にアメリカ優勢に傾いていたから、日本の本土での決戦の為に時間が必要だったのに違いない。フィリピンに送り込まれた日本軍は長期持久作戦、自活自戦、永久抗戦で米軍をこの国に釘付けしようとした。敵ながらあっぱれだったのが、山下大将だったよ。彼はマニラを戦場にすることには反対だったようだが、大本営と海軍と航空隊が承知しなかった。山下将軍は陸軍を連れて命令に反して、北の山に登っていったようだったが、結局、海軍マニラ防衛部隊がマニラに残り、マニラは修羅場と化してしまったよ。十万人以上のマニラ市民が犠牲となってしまった。フィリピン全土では百数十万人以上の一般の人々が犠牲になった、軍人、軍属の数を入れると、その数は相当なものになるな。もちろん、日本人もたくさん死んだよ。沖縄での激戦、広島、長崎の原爆、日本の主要都市への空襲のこともわしは知っているよ。このフィリピンでもコレヒドールの攻防だけでも、アメリカ軍から島を奪う時に日本軍は5千名以上が死んだ。そして島をアメリカ軍によって取り戻された時にも日本軍は降伏することなく玉砕した。その時、集団自決した数が6千人以上と聞いておる。だがな、正樹先生よ、第二次世界大戦では日本人もアメリカ人も、そしてわしらも家族もたくさん死んだがな、決定的な違いがあるんだ。われわれの多くは一般の民衆が犠牲になっているのだ。第一次世界大戦の犠牲者はおもに軍人や軍属だったがな、ところが先の大戦での犠牲者は一般の民衆の方が軍人よりも多く死んでおる。特にアジアでは日本人の犠牲者は軍人や軍属がほとんどだが、侵略されたアジアの国々の犠牲者は、そのほとんどが罪のない一般民衆だったんだよ。分かるかね、そのことが、先生!」
そこで、しばらく沈黙が続いた。老人はもう一杯、強いココナッツ酒を飲み干した。その目は赤く充血しており、瞳は大きく見開かれて、正樹に向けられていた。
「先生。あんたをルホ山の見晴台に案内しようか。きっと、初めてだろう。長いことこの島にいても、なかなか、皆、ここまではやって来ないからな。」
「ルホ山のことは話に聞いてよく知っておりますが、忙しくて、なかなか来る機会はありませんでした。とても素晴らしい眺めだと聞いております。」
「ああ、悲しいほど美しい眺めだよ!」
四人は小屋を出て、砂利道を五分ほど老人の歩調に合わせて歩いた。老人は杖を使って片足だけでも器用に見晴らし台へ続くとおもわれる坂道を登って行った。正樹たちもその後に続いた。ブロックと鉄パイプでこしらえた手作りの見晴台はすぐに現われた。そばに屋根だけの粗末な売店があった。見晴台はどうやら有料のようで、その小屋にいた夫婦者が利用料を徴収しているようであった。もちろん、片足の老人は払わずに、どんどん見晴台の上に上がっていってしまった。猿やら小鳥、犬や猫なども飼われていて、見晴台の使用料が高いために、その動物たちの鑑賞料も含んでいるとでも言いたげであった。売店では動物たちの餌も売られていた。見上げると老人が手を振って正樹に早く登って来いと合図していた。
「先生、こっちだ。早く。今日は晴れていて、素晴らしい眺めだよ。」
不思議である。今、上で手招きをしている老人はさっきまで、あの戦時中の重たい話を正樹にしていた人だとはおもえない。別の無邪気な子供のように正樹にはおもえた。正樹は売店にいる男に利用料を払おうとしたが、トニーとダニーがそれを止めた。必要ないということらしい。きっとゲリラたちの特権なのであろう。大きな台風にはとても耐えられない見晴台だ。登る度にぐらぐらと揺れていた。上まで登って老人の隣に立ち、その大パノラマを見た時、正樹のさっきの謎は解けた。人間の営みなど何もかも忘れてしまうほどの美しい景色がそこには広がっていたからだ。老人が正樹の耳元で言った。
「どうだね、ここからの眺めは?わしの自慢なんだ。」
「素晴らしいですね。まるで空中に浮かんでいるみたいですよ。ここはボラカイ島の裏側ですね。見えませんが向こう側がホワイトサンド・ビーチですね。」
「その通りだ。この雄大な景観の前では、わしらはちっちゃいのう。正樹先生、そうはおもわんかな。」
「ええ、まったく、おっしゃる通りです。」