
chapter49
ブラウニーとホワイティー
早苗が買い物をするために市場に行くと茶色と白の二匹の野良犬が現われるようになった。まだ二匹とも子犬で早苗のことを見ると嬉しそうにそばに寄って来るのだ。二匹とも雄だが、いつも一緒に歩き回っている。雨の日も風の日も、早苗がパレンケ(市場)へ行くと、必ずどこからか現われて、早苗の近くに来るようになっていた。早苗は市場の人たちに聞いてみたが、その茶色と白の雑種の子犬には飼い主はいないという答えが何度も返ってきた。
浜辺の家に帰った早苗は正樹にその子犬たちの話をした。
「あの子たち、あたしのことが分かるみたいね。小さなしっぽを振りながら近寄って来るのよ。かわいくって、かわいくって、・・・。ねえ、正樹さん、あの子たちをこの家で飼ってはだめかしら?」
「野良犬か・・・、それは、その犬たちが決めることだよ。もし、その子犬たちがこの家を気に入れば、僕は反対しないよ。飼ってもいいよ。」
「よかった。じゃあ、今度、連れて来るからね。」
「でも、あのパレンケの人ごみの中で、よく生き抜いてきたよね。感心するよ。飼い主は本当にいないのかな?」
「市場の人に何度も聞いたけれど、野良犬らしいわ。」
「そう、それならいいけれど。まあ、この家に連れて来ても、その犬たちを鎖で縛り付けるのはやめようよ。今まで通り、自由な野良犬のままでいいんじゃないかな。」
「そうね、都会と違って、ここなら近所に迷惑をかける心配もないしね。放し飼いでいいわね。」
翌日、早苗はさっそく市場へ出かけた。五分もしないうちに、子犬たちは早苗に駆け寄って来た。早苗はいつものように、跪いて二匹の頭をやさしくなでながら話しかけた。そして、立ち上がり子犬たちに大きな声で言った。
「さあ、おいで、一緒について来なさい。」
トライシクルを使わずに、早苗は歩いて浜辺の家まで帰るつもりだった。この二匹の子犬たちは、はたして浜辺の家まで一緒について来てくれるのだろうか、早苗にはそんな自信はまったくなかった。
「さあ、おいで、行くわよ。」
子犬たちは早苗の後ろにぴったりとついて来た。市場の人ごみを抜けて、メイン・ロードに出ても、まだ早苗から5mと離れずに、その小さな足でもって、懸命に歩いて来た。
早苗は時々立ち止まり、二匹の頭をやさしくなでた。
「しっかりとついて来るのよ。後でおいしいものをたくさん食べさせてあげるからね。」
時間は少しかかったが、早苗と一緒に白と茶色の子犬は正樹が待つ浜辺の家に到着した。
「名前はブラウニーとホワイティーだな。茶色い方がブラウニーで、白い方がホワイティーだ。それでいいよね、早苗ちゃん。」
「ええ、それでいいわ。」
二匹の子犬は浜辺の家の特等席、海が見えるベランダに腰を下ろした。少し疲れてしまった様子だった。正樹が犬たちに近寄って挨拶をすると、座ったままの格好でしっぽだけを振って、それに答えた。早苗がキッチンから残飯に干し魚を混ぜて持ってくると、犬たちはしっかりと立ち上がって、早苗に向かって前足を上げて、喜びのポーズをとった。早苗が餌の入ったボールを差し出すと、二匹は向かい合うようにしてボールの中に顔を突っ込んで食べ始めた。初めのうちは仲良く食べていたのだが、残りが少なくなってくると、ブラウニーは牙をむき出してホワイティーを威嚇し始めた。どうやら、ブラウニーの方が気性は荒く、ホワイティーはやさしい性格のようであった。それを見ていた早苗はジャーキーと呼ばれる干し肉を自分の口で柔らかくなるまで噛んでから、それをホワイティーに与えた。それを見ていた正樹が言った。
「ホワイティーは雑種にしては、どことなく気品があるね。成長すると、どのくらいの大きさになるのかな?楽しみだね。・・・・・・だけど、明日になったら、この家からいなくなっているかもしれないよ。野良犬は自由だからね。」
しかし、ブラウニーとホワイティーは二日経っても、一週間が過ぎても、浜辺の家から去らなかった。二匹の子犬は早苗と正樹が住む浜辺の家が気に入ったようだった。
犬たちが浜辺の家に来て一年が過ぎた。予想したよりも犬たちは大きくなった。一匹二匹と呼ぶよりも、一頭二頭と呼んだ方が正しかった。手足を延ばせば、早苗の身長と同じくらいのサイズにまで成長していた。4km続くホワイトサンド・ビーチを早苗と正樹が散歩する時にはブラウニーとホワイティーが二人の両脇に並ぶようにしてついてきた。二頭とも堂々としていて、滅多なことでは吠えたりはしなかった。早苗と正樹のことを守るようにしてどこへ行くにもついて来た。島で唯一の交通手段であるトライシクルの後部座席にも乗れるようになっていた。犬たちは早苗と正樹に全幅の信頼を寄せていた。ブラウニーは大人になっても欲張りで気性が荒く、自分に与えられた餌がなくなるとホワイティーの餌を横取りした。そんな時は決まって、早苗が自分の口でビーフジャーキーを噛み砕いてホワイティーに与えていた。ブラウニーはそれを横目で見て羨ましそうな表情をするのだった。正樹もよくブラウニーのことは叱りつけた。手加減をしながら叩くこともあったが、ホワイティーのことを叩いたことは一度もなかった。
出逢ったものは、いつかは別れなくてはならない。だから、一緒に過ごせる時間を大切にしなくてはならないと正樹はおもっている。それは人でも犬でも物でも同じである。
犬たちが浜辺の家に住みついて3年が経った。白いホワイティーの体が段々と黄色くなってしまった。と同時に、ホワイティーは食欲もなくなり、ベランダで寝たきりの状態になってしまった。
「早苗ちゃん、ホワイティーはヘパだよ。もう、時間の問題だな。」
「えっ・・・、ヘパ・・・・・・。」
「ネズミから感染したのかもしれないね。」
「何とかならないの? 」
「残念ながら、無理だな。」
「でも、ブラウニーはとても元気よ。」
「ウイルスが入っても、必ずしも発病するとはかぎらないんだ。ウイルスの潜伏期間はまちまちで、ブラウニーは今は元気でも、しばらく経ってから発病することだって考えられるし、天命を全うするまで発病しないことだってある。」
正樹はホワイティーを隣の島の獣医のところへ運ぶことにした。ホワイティーの大きな体を抱き上げて、呼び寄せたトライシクルの後部座席に乗せた。そして正樹もホワイティーのすぐ横に腰掛けた。早苗とブラウニーがホワイティーとの最後の別れの時をむかえた。もちろんブラウニーは何で友と別れるのかが理解出来ない。一緒にトライシクルに飛び乗ろうとするブラウニーのことを早苗が懸命に押さえつけた。正樹はドライバーに発車を命じた。おそらく、獣医はホワイティーの安楽死を選択するに違いなかった。その方がホワイティーは苦しまなくてすむからだ。やさしいホワイティーはもうしっぽを振る力もなかった。ホワイティーの目だけが早苗とブラウニーのことをいつまでも見つめていた。
ボート・ステーションに着いた。病気の犬と一緒では島の人たちが嫌がるとおもい、正樹は共同の定期船は避けてバンカー・ボートをチャーターした。ホワイティーと二人だけの最後の船旅だ。ゆっくりとホワイティーのことを抱えあげてボートに乗船した。しっかりと抱き上げたホワイティーの体からは今にも絶えてしまいそうな温もりが正樹に伝わってきた。船に乗っている間中、正樹はホワイティーから離れなかった。悲しげなホワイティーの目が正樹のことを見上げていた。船はカティクランに到着した。船着場から知り合いの獣医の家までは近かった。正樹はホイワイティーを抱きかかえながら歩いた。ホワイティーの体重は30kg以上はあった。でも、正樹はちっとも苦痛ではなかった。汗と涙が自然に吹き出ていた。何か新しい治療法が見つかっているかもしれない。正樹はそのことばかりを願い続けた。10分ほどで犬と猫が描かれた看板のあるアニマル・クリニックにたどり着いた。
診察室の大きな台の上にホワイティーを置いた。獣医のスコットとは何度もボラカイ島で会ったことがある。正樹はこの動物診療所にも何度か足を運んだことがあった。まさか、こんなことで、スコットと再び話をすることになるとは夢にもおもわなかった。
「スコット、何か新しい治療法はあるかね?」
「正樹先生、お気の毒ですが、まだ見つかってはいません。」
「そうか。・・・・・・手遅れだったか。」
「突然、発病するのがこの病気の特徴で・・・・・・。」
「分かっているよ。」
「名前は?」
「ホワイティーだよ。」
スコットは優しくホワイティーの頭をなでた。それから、しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。二人は何も言葉は交わさなかったが、お互いの気持ちは完璧に理解出来た。
「正樹先生、ホワイティーは私が・・・・・・?」
「いや、島に連れて帰りたい。」
「分かりました。それでは、しばらく待合室でお待ち下さい。」
正樹は軽く頷くと、診療室から出て行った。
30分ほどだったか、1時間だったか確かではない。正樹にとってはとても長い時間が過ぎたような気がした。ホワイティーとの楽しい思い出が走馬灯のように甦っては消えた時間だった。
スコットがホワイティーの入った大きな米袋を台車に乗せて、待合室に入って来た。もう、二人は言葉を交わさなかった。正樹は頭を下げて、その米袋を抱きかかえた。まだ、ホワイティーのぬくもりが残っていた。涙がまた、不覚にも流れてしまった。
劇症肝炎
正樹が浜辺の家に帰ると早苗とブラウニーは留守だった。メモが置かれてあり、岬の豪邸にいると記してあった。それは好都合だった。正樹はすぐに、裏庭にブラウニーの足では掘り返すことが出来ないくらいの深い穴を掘り、ホワイティーをその袋のまま埋めた。穴を掘りながら振り返ってみた。ホワイティーの症状は黄疸に加えて、何度も吐いていたし、熱もあった。鼻や歯肉からの出血もみられ、呼吸や鼓動も荒く激しかった。だんだん表情もなくなり意識もなくなってしまった。そして抱き上げて獣医のところへ運ぶ時には、もう完全にこん睡状態だった。消化管出血と脳にも炎症が起きていた。急性の肝炎の中でも数パーセントの確率で起こる劇症肝炎だったことは明白だった。もちろん犬と人間との場合では判断はまったく違う。それでも正樹は神でもない自分がホワイティーに安楽死を与えてしまったことを苦しんでいた。ホワイティーの埋葬が済んだ。正樹はしばらく盛り上がった土の前で手を合わせた。それからゆっくりと立ち上がり、岬の家に向かって歩き出した。途中、何度か海に入り汗まみれの体を洗った。
早苗とブラウニーはネトイの書斎にいた。早苗の足元でブラウニーは静かに座っていたが、正樹が部屋に入って来るのを見ると、サッと立ち上がりしっぽを振りながら正樹のそばに寄って来た。正樹は軽くブラウニーの頭をなでで早苗の隣に座った。菊千代もネトイの後ろに立っていた。大きな部屋は静まり返っていた。その場にいた者はみな正樹の言葉を待っていた。
「ホワイティーは助からなかったよ。今、庭に埋めてきたところだ。」
ネトイが口を開いた。
「そうか、それは残念なことをしたな。やさしい犬だったのにな。」
菊千代が正樹に聞いた。
「ホワイティーは肝炎だったの?」
「ええ、肝炎と言ってもいろいろあるけれど、その中でもホワイティーの場合は最悪のケースでした。まあ、急性の肝炎に罹っても、たいていの場合は、安静にしていれば自然に治ってしまいます。そして一度かかれば免疫ができて再感染することはないのだけれど、・・・・・・ホワイティーの場合は様々な合併症が起きてしまった。残念だよ。
きっと、この岬の家のほとんどの子供たちは過去に肝炎を患ったことがあるとおもいますよ。あの不衛生か環境で生き抜いてきた子供たちばかりですからね。」
菊千代は肝炎について、まったく知らなかった。
「どうして、ホワイティーは肝炎になってしまったのかしら?」
正樹が彼女のために分かりやすく説明を始めた。
「肝炎とは肝臓に炎症が起こった状態のことをさします。肝臓の肝と炎症の炎をくっつければ肝炎という言葉になりますよね。その原因は様々で、アルコールや薬物、アレルギー性のものもありますが、ほとんどの場合はウイルスが体に侵入して来て発病します。ウイルスが肝細胞を破壊するのではなくて、外から入ってきたウイルスを体がやっつけようとして、免疫作用によって一緒に肝細胞も壊してしまうわけなんです。肝臓とは辛抱強い臓器でしてね、少しぐらいのダメージなら痛がらないんだ。だから逆に病気になっていることに気がつかないで病気がどんどん進行してしまう。気がついた時には、もう手遅れになることが多いのですよ。」
菊千代がまた質問した。
「さっき、正樹先生はここの混血児たちがみんな肝炎にかかったことがあると言いましたよね。でも、みんな元気ですよ。」
正樹が続けた。
「それではもっと詳しく説明しましょうか。急性肝炎になると、まず風邪のような症状、例えば、倦怠感が出て食欲もなくなります。発熱があり頭痛や関節なども痛み始めます。それに続いて、右脇腹痛、そして黄疸の症状がみられるようになります。安静にしていれば、数ヶ月で症状は治まります。完全に治れば、体内に免疫ができて、もう二度と感染することはなくなりますが、治りきらないと慢性の肝炎へと進むケースもあります。大概の場合は抗体が体内にできて二度と発病しないでしょう。裏通りの汚い水や腐った生魚を食べてきた子供たち、親からも社会からも捨てられた、ここの子供たちは少なからずA型肝炎の洗礼を受けているはずですよ。」
「日本ではB型肝炎のこともよく聞きますけれど、今、正樹さんが言ったものとは別なのですか?」
今度は早苗がそう質問してきた。
「今、僕が言ったのはA型の肝炎の一部のケースです。A型とかB型とか言うのはウイルスの名前ですよ。発見された順番にA、B、・・・・・とウイルスに名前をつけていきます。A型のウイルスは感染力が強くて、水や生魚など口に入れたものから簡単に感染していきます。おしっこがビールより濃い色になったら白目をみる。皮膚や白目が黄色くなったら、すぐに検査を受けた方がよろしいでしょう。早苗ちゃんが言ったB型肝炎ウイルスは経口感染や空気感染することはなくて、血液によって感染していきます。母子感染や注射針、そして輸血による感染が考えられます。不衛生なピアスの穴開けも問題ですね。」
「輸血ですか、それじゃあ、大きな手術をした人は気の毒ですね。」
「でも血液の検査体制の進歩で輸血による感染は次第になくなる方向にあるとおもいます。A型肝炎、B型肝炎にしても、そして将来発見されるだろうC型肝炎にしても一過性の感染と持続性の感染が考えられます。感染してもすべての人が危険な状態になるわけではありません。一過性の感染の場合は症状がまったくでない人や軽く済んでしまうケースが約九割で残りの一割の人が急性肝炎になってしまいますが、命の危険のある劇症肝炎に進むのは、さらにその中の数パーセントぐらいでしょうか。持続感染の場合も約九割の人が自覚症状はないか、あるいはあっても軽く済んでしまいます。ただ、ウイルスは排除されず体内に保有したままのキャリアとして生涯を暮らすことになります。約一割の人が慢性肝炎へと進んで肝硬変や肝がんになる可能性があります。これもその一割の人すべてが命の危険にさらされるわけではありません。一部の人だけが肝硬変や肝がんへ進む可能性があります。」
「それじゃあ、知らないうちにキャリアになってしまっていることもあるのですね。」
「そうですね。でも自分がキャリアだからといって、暗くなってはいけませんよ。規則正しい生活をして、バランスのとれた食生活をすること。そして、気持ちを明るく、ストレスを抱え込まないことです。ストレスは肝臓の一番の大敵ですからね。」
別れ
戸隠で民宿をやっている早苗の父親が倒れたとの連絡が入った。早苗と正樹はすべてのことを後回しにして、その日のうちに日本へと向かうことになった。まず移民局へ行き、出国と再入国の手続きをとった。長期の滞在者は犯罪を犯しているかどうかのチックをしなければならないからだ。それを済ませないと空港からは出ることは出来ない。わざと複雑にしているとしかおもえない手続き、長い時間を使って出国の許可を取らなければならないのだ。どこの国でもそうなのだが、外国人の出入国には高い手数料と面倒な手続きが必要となる。マニラの移民局にはその複雑な手続きを代行する者がロビーを中心にして常にうろうろしている。もちろん、その者たちに頼めば余計に手数料がかかってしまうことになる。しかし役人たちと組んでいるので仕事が早い、今回は急いでいたので不本意ながら代行屋を利用した。それでも4時間以上も風通しの悪いロビーで待つことになってしまった。
空港に着くと二人は航空会社の窓口へ直行した。正規の運賃を払ったので飛行機の座席はすぐに確保することが出来た。早苗と正樹はその夜の最終便に乗ることが出来た。しかし、出発の時間になっても飛行機は飛び立たなかった。乗客の一人がやって来ないというアナウンスが機内に流れた。しばらくすると、今度はその乗客が乗せた荷物を捜し出して飛行機から降ろすという説明があった。爆弾テロを航空会社は恐れているのだ。誰だか知らないが、まったく迷惑な奴がいるものである。チックインした後で、どこかに消えてしまったらしい。すっかり疲れきってしまった早苗の手を正樹はそっと握った。二人はそのまま機内で眠ってしまった。運ばれてきた機内食にも手をつけなかった。
日本に到着したのはいいが、都心へ向かうバスも電車もない深夜になってしまっていた。国際空港は羽田から成田に変わっていて、正樹は勝手がまったく分からなかった。結局、東京までタクシーを使うしか方法がなかった。渋々、タクシー乗り場へ行くと、人相の悪い男が近寄って来た。
「どちらまで?」
正樹は一瞬ではあったが、ここが日本なのか疑ってしまった。男は黙っている正樹に料金表のようなものを見せながら言った。
「東京までですか? 東京のどちら?」
「東京駅まで行きたい。」
そう正樹が答えると。男は手に持った料金表を指しながら、二万円だと言ってきた。
日本でタクシーなど乗ったことがなかった正樹は早苗の顔を見た。早苗が正樹に代わって答えた。
「高速代も含めて?」
「ええ、全部で二万円です。」
「分かったわ。」
そう早苗が言うと、男は横にいたタクシーを指差して二人を誘導した。窓越しに見える運転手はパンチパーマで年齢は四十歳後半のようだった。ある種、独特のオーラが運転席から流れ出していた。客引きの男が車内に顔を入れて、調子よく運転手に言った。
「東京駅までお願いします。」
正樹たちが乗り込むと、運転手は黙ったまま車を発車させた。完全武装の機動隊が警備する成田空港を出てもタクシーのメーターは倒れたままだ。メーターの数字はまったく動いていない。高速道路に乗ったところで、勇気を出して正樹が言った。
「メーターが倒れていないようだが、・・・・・・。」
「あれ、聞きませんでしたか。東京駅までの料金。」
正樹はもうそれ以上は話す気にはならなかった。また、早苗の手を強く握って目を閉じてしまった。
早苗と運転手の話し合う声で正樹は目が覚めた。
「高速代も含めて二万円だと、さっき空港にいた人が言っていましたよ。」
「そんなこと言っていましたか、・・・・・・。」
「あたしね、前にもタクシーを使いましたけれど、あの時は一万五千円でしたよ。高速代も含めてね。」
「・・・・・・、分かりましたよ。奥さん、二万円でいいですよ。」
正樹が言った。
「空港にいた男が高速代も含めて二万円だと言ったから、乗ったのだろう。・・・・・・、それなら、何故、初めからメーターを倒さないのか!」
「だから、二万円でいいと言っているだろうが!」
もう、うんざりだった。まさか、日本に来てまでこんな不愉快な会話をするとはおもわなかった。正樹は財布からお金を出して、それをパンチパーマに手渡しながら言った。
「もう、いいよ。そこで停めてくれ。そこで降りるから。」
タクシーは急ブレーキの音と共に停車した。
深夜の東京は冷たい。特に南国から帰ってきた者には夜風がすこぶる身にしみる。
「早苗ちゃん、どうしようか。電車が走り出すまで、まだ、少し時間があるけれど、・・・・・・。そういえば、朝から何も食べていなかったね。駅まで行く途中で開いている店があったら、何か食べようか。」
「そうね。正樹さん、お腹、空いたでしょう?」
「そんなには空いてはいないよ。」
この時、正樹は街灯に照らし出された早苗の顔が少し黄色いことに気がついた。それは光線の加減でそう見えたのかもしれないので、そのことについては一言も触れなかった。
「早苗ちゃんは大丈夫? 疲れたでしょう。早く、どこか、暖かい場所をみつけて、休むことにしようか。」
「ええ、そうしましょう。」
10分ほど歩くと、24時間営業の牛どん屋の明かりが二人の前の方に現われた。
「とりあえず、あそこに入って休もうか?」
「いいわよ。」
男の正樹は以前にも何度か利用したことがあったが、女の早苗は牛どん屋は初めてであった。カウンターだけの店内、長時間居座ることが出来ないことくらい分かってはいたが、正樹は牛どんの味がとても懐かしかったので、つい入ってしまった。男は海外生活が長く続くと無性に牛どんの味が恋しくなるみたいだ。店の入り口の横にあった公衆電話をみつけて早苗が言った。
「あたし、ちょっと家に電話してみるね。こんな時間だし、たぶん、誰も電話に出ないとはおもうけれど、・・・・・・。」
「わかった、じゃあ、先に中に入って、適当に注文しておくから。」
「ええ、お願い。」
正樹はカウンターの席に着くと、牛どんとサラダを注文して早苗のことを待った。オーダーしたものはすぐに目の前に運ばれてきたが、早苗はなかなか店の中には入って来なかった。どうやら誰かが電話に出たらしかった。早く、男の自慢の牛どんを早苗に食べさせてやりたかった。ところがいっこうに早苗は店に入って来る気配がなかった。心配になった正樹が外に出てみると、早苗は公衆電話の下にうずくまっていた。近寄って正樹が言った。
「早苗ちゃん、・・・・・・大丈夫?」
「ええ、大丈夫、・・・ちょっと気分が悪くなったものだから、・・・・・・。もう、平気よ。」
正樹は早苗の額に手を当ててみた。
「熱があるじゃないか。」
「うんーう、あたしは平気よ。お父さん、病院だって、親戚のおばさんがそう言っていたわ。何も食べることが出来なくなってしまったみたい。・・・・・・肝炎だって。」
「そうか。・・・・・・さあ、中に入って、少し食べないと、早苗ちゃんが倒れちゃうよ。食べたら、始発電車で長野へ行こう。」
「ええ。」
長野駅に着くと、戸隠の早苗の実家には行かずにそのまま県立病院の方へ直行した。早苗が病室で父親の手をとっている間、正樹は担当医と話をした。肝性脳症と呼ばれる意識障害が激しく、脳浮腫、感染症、消化管出血、腎障害の合併症も起こっていると聞かされた。早苗の父親は急性の劇症肝炎だった。正樹が病室に戻ると、今度は早苗が倒れてしまっていた。早苗もそのまま入院となり、医者は肝炎の疑いがあると正樹に告げた。肝硬変がかなり進んでいる可能性があった。早苗の病状は血液検査、画像診断、肝生検の結果を待たなくては何とも言えなかった。
正樹は病院の玄関から出て、長野の青い空を見上げた。ボラカイ島に帰る気もしない。東京の実家に戻るつもりもなかった。早苗が良くなるまで、この長野にいることにした。早苗の実家は戸隠で民宿をやっている。今は親戚のおばさんが手伝っていると早苗が言っていたので、とりあえず、早苗の実家へ行ってみることにした。明日、また病院へ来ると約束して、さっき、早苗とは別れた。その時、早苗がおばさんに手紙を書いてくれた。
「これをおばさんに見せて下さい。正樹さんのことを頼んでおきましたから。」
「ありがとう。また、明日、来るからね。ゆっくり休んでいて下さい。」
早苗はすでに自分の運命を甘受しているかのように、正樹にはおもわれた。
「早苗ちゃん、頑張れよ!元気になって、また島に帰るからね。いいね。」
「正樹さん、もしもよ、・・・あたしが死んだら、あたしの骨を半分、ボラカイ島へ持って帰って下さいね。」
「何を言っているんだ。肝炎という病気で命を落とすのはね、ほんの1パーセント、いやそれ以下の確率なんだよ。そんなに大変な病気ではないんだから、・・・・・・。」
「分かったわ。頑張るから、・・・・・・でも、もし駄目だったら。あたしもボラカイ島の丘の上の墓地に入れてね。約束ね。」
「分かったよ。・・・・・・でも、今はさ、そんなことばかり考えてはいけないよ。いいね。」
正樹は戸隠の宝光社というバス停で下車した。バス停のすぐ近くにそば屋があった。正樹はそば屋の中に入り、早苗が書いてくれた住所を示して道を尋ねた。
「あんたは早苗ちゃんのお知り合いかね。」
「ええ、正樹と申します。」
「俺は早苗ちゃんの幼なじみで、定吉といいます。今、早苗ちゃんもおやじさんも家にはいないよ。」
「ええ、分かっています。今、病院の帰りで、お父さんのことを早苗ちゃんと一緒にお見舞いに行ってきたのですがね、急に早苗ちゃんも具合が悪くなって、それで彼女も同じ病院に入院してしまいました。」
「ええ、・・・・・・早苗ちゃんもかよ?・・・・・・それで、どんな具合なんだ?」
「まだ、検査をしてみないことには何とも言えませんが、お父さんと同じ症状が出ていますね。」
「そうかよ。それは気の毒だな。」
「僕、しばらく、早苗ちゃんの家に厄介になって、病院へ通うことにしたのですが。」
「そうかね。じゃあ、わしが早苗ちゃんの家まで案内してあげますよ。ちょっと、待っていてくれますか。今、店を閉めますからね。」
「ありがとうございます。面倒をおかけして申し訳ありません。」
「いいんだよ。あんたは早苗ちゃんの大切な人なんだろう。茂木さんは死んでしまうし、名前は忘れたが、フィリピン人の、ほれ、・・・・・・。」
「ボンボンですか?」
「そうそう、ボンボンだ。彼はどうした?」
「彼も死んでしまいましたよ。・・・・・・そうですか。定吉さんは茂木さんたちのことをご存知だったのですか。」
「以前に、お二人をこの二階にお泊めしたことがありますよ。まあ、話は後にしましょうか。とにかく、早苗ちゃんの家まで連れて行ってさしあげますよ。話の続きはまた今夜、酒でも飲みながらどうです?」
「ええ、いいですね。是非!」
早苗の家の民宿を任された父方のおばさんと早苗の幼馴染であるそば屋の定吉は正樹のことをまるで自分の家族のように面倒をみてくれた。この二人がどれだけ正樹のことを支えてくれたかは語るまでもない。早苗が入院してから二ヶ月の月日が経ってしまった。病状は悪化するばかりで、検査を繰り返すたびにその数値は悪い方へむかっていた。そして先に入院していた早苗の父親が亡くなってしまった。そのことを早苗に告げたのだが、意識が朦朧としている早苗には通じなかった。正樹は民宿を手伝いながら、毎日、病院へ通った。もう話すことすら出来ない早苗だったが、それでも正樹は早苗のそばで、手を握りながら昨日起こった出来事やボラカイ島から届く手紙を読んで聞かせた。
さらに一ヶ月が過ぎて、ついに早苗の断末魔が始まった。時折、意識が戻ってくると、早苗は同じ言葉を何度も繰り返した。
「正樹さん、お願い。あたしもホワイティーのように楽にして下さい。」
早苗は安楽死を望んでいた。しかし、正樹は奇跡が起こること願った。そうだ、ボラカイ島へ連れて行こう。あのボラカイ島のマリア像なら早苗ちゃんのことを救ってくれるかもしれない。正樹は自分が医者であることを忘れていた。本気で彼女をボラカイ島へ運ぶことを考えていた。
「よし、行こう。」
そう正樹は早苗に言うと、彼女のすっかり小さくなってしまった体を抱き上げて、歩き始めてしまった。病院の廊下を抜けて、玄関までたどり着いた。急に早苗の体が軽くなるのを正樹は感じた。正樹は早苗を抱いたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。二人のまわりには人が集まり始めていた。涙は出なかったが、正樹は心の底から泣いてしまっていた。病院の玄関の外にはボラカイ島と同じ青い空が広がっていた。正樹はその空を見つめていた。
「早苗ちゃん。着いたよ。・・・・・・君が帰りたかったボラカイ島に着いたよ。」