chapter6

 

リンダ

 

 お手伝いのリンダが朝食の支度をしている。正樹はその後ろのテーブルに肘をついて、彼女の後ろ姿をながめていた。昨夜はノウミと飲み過ぎてしまって、少し二日酔い気味であった。ただぼんやりとリンダの料理する後姿をながめていた。

いろいろな事が頭に浮かんできた。正樹は日本を出る前にフィリピンに関する予備知識が必要だとおもい、この国の歴史をざっと調べておいた。すべてはとても思い出せないまでも断片的にその内容がウエンさんやノウミが案内してくれた場所と絡み合って理解することが出来るようになってきていた。フィリピンの国民の大多数はカトリック教徒であり、東南アジアで唯一のカトリックの国だと言われている。ローマ法王もしばしばこの国を訪問するほどのカトリック大国なのだが、驚くことに昔はそうではなかったらしい。十五世紀になってマレー半島やインドネシア、ボルネオなどの近隣諸国からイスラム教がこのフィリピンにも伝わり、十六世紀にはミンダナオだけではなくマニラもイスラムの世界だったらしい。どんなに勉強が嫌いな正樹でもマゼランの名前くらいは知っていた。その世界一周のマゼラン、彼の世界一周の野望を無残にも打ち砕いたのは何を隠そう実はこのフィリピンの昔の人々だったのだ。フェルディナンド・マゼランがスペイン王の名においてセブ島の民族間の争いに介入したのがそもそもの間違いの始まりで、マゼランはその時に首長ラプラプとの戦いで負傷してしまった。その傷がもとで彼は後になって死んでしまうのである。それは千五百年頃のことらしく、その後もスペイン政府はフィリピンという国に特別な興味を持ったようで何度も遠征軍を組織して兵隊を送り込んできた。レガスピ将軍、将軍だったかどうかは確かではないがセブ島にスペインの植民地を建設した。そして次々とフィリピンの島々を占領していった。十五世紀の後半にはマニラをもその支配下に置いてしまった。それ以後、三百年以上もの長い間、スペインはフィリピンの本格的な植民地支配を続けることになった。十八世紀の半ばを過ぎるとスペインでは内乱が起こるようになる。このスペイン本国の混乱と同時にフィリピンでも知的な階級の人々によって自由を獲得しようとする動きが出始めた。十九世紀に入る前の秘密の結社「カティプーナン」の武装蜂起は有名である。その反乱で逮捕されたのが医師のホセ・リサールであった。かれは作家としても有名でサンチャゴ要塞にある彼の記念館に飾られてある肖像画の表情から判断する限り、ホセ・リサールは非常にソフトで穏健的な感じの人物だと正樹にはおもえた。そして彼は大衆への見せしめとしてマニラのルネタ公園で銃殺刑に処せられた。後に彼の遺体は先日ウエンさんが案内してくれたあの外国からの要人が頭を深々と下げて献花をするリサール記念像の下に埋葬されたそうだ。以後、フィリピンの英雄としてどこまでも語り継がれることになる。歴史学者の間では彼を英雄とすることに異論を唱える者もいるが、歴史の解釈は時として人まちまちになるもので、それは今後もそれぞれの学者が勉強していけば良いことだとおもう。リサールの恋人だか奥さんは日本人だったのではないかと正樹は考えている。良く調べていないからハッキリしたことは言えないのだが、サンチャゴ要塞にある彼の記念館には着物を着た日本人女性の絵が何枚かあった。絵の下に書かれてある説明文をしっかりと読んでこなかったので恋人なのか奥さんなのかは分からない。ホセ・リサールは日本にも来ているはずである。東京の日比谷公園にそれらしき碑があったような気が正樹はしている。いずれにしても彼は日本との関わりが非常に深かったことだけは間違いない。スペイン政府はホセ・リサールのように自分たちに逆らう民衆のリーダーたちをどんどん処刑していくのだが、結局、民衆の反スペイン感情を抑えてつけることは出来なかった。フィリピンに詳しい人なら知っているだろうが国軍のベースにアギナルドと名づけられた基地があるが、あのアギナルド基地のエミリオ・アギナルドはアメリカの力を借りてスペイン軍と対決していく、次第に優勢となりフィリピンの独立宣言を一方的に行った。フィリピン共和国を発足させ自らを初代の大統領としたのだが、アメリカは一方ではパリで米西講和会議を開き、その席でメキシコとフィリピンの植民地の支配権をスペインから譲り受けた。まったくふざけた話だがスペインは何とたったの二千万ドルでフィリピンという一つの国をアメリカに売り渡したのである。そして今度はアメリカがスペインにとって代って新しいフィリピンの支配者という訳である。アメリカの近代兵器の前ではフィリピンのアギナルド政権はどうすることも出来なかった。フィリピン国軍は戦いはしたものの強国アメリカとは勝負にはならなかった。こうして十九世紀の初めからアメリカが本格的にフィリピンの支配を始めることになった。アメリカは圧倒的なその軍事力でもって何もかも抑え込んだ。スペインはカトリック教会の布教を植民地政策の柱とし、民衆の心を何とかつかもうと努力したが、アメリカは教育を特に重要視したようでフィリピン全島に小学校を建設した。教育システムもアメリカと同じカリキュラムをそのまま取り入れ、小学校から大学まで一貫して英語で授業を行った。現在では若者たちは英語は下手くそだが、フィリピン人のお年寄りほど英語が上手に話せるのはそんな理由からだ。やがて世界的な恐慌がやってきてアメリカは自分の本国のことだけで手一杯になってくる。するとアメリカ国内にはフィリピンの独立を望む声が次第に高まってくるようになった。不況になると戦争が起きる。これはいつの時代も同じで何度も繰り返される悲しい人類の歴史だ。1941年に日本軍がフィリピンに上陸する。その侵略の速度はとても早く、半月後にはマニラを完全に占領し日本軍のフィリピン支配が始まった。「アイ・シャル・リターン」の言葉を残してマッカーサー元帥だけがフィリピンからこっそり逃げてしまった。そして日本軍が降伏するまでの間、残された米軍兵士や多くのフィリピンの人たちに癒しがたい傷を残してしまうことになった。戦況は一変して、オーストラリアに逃げていたマッカーサーは反撃に転じた。必ず戻って来ると言った彼の約束を果たした。コレヒドール島に立てこもっていた日本軍は玉砕し、マニラを警備していた日本海軍も激しい市街戦の後、ビルの地下室などで自決した。市街戦を避け北部山間部に部隊を移した山下将軍も降伏してフィリピンはやっと日本軍から解放された。そして1946年に待望の独立を成し遂げる。正樹が生まれるほんの九年前の出来事であった。しかし依然としてフィリピンはアメリカの経済の支配下に置かれたままで、アメリカ主導型の政権が続くことになる。1964年に自由党のマルコスが大統領になると、自由党独裁、マルコス独裁の時代となる。しかし次第にマルコスのやり方を見るに見かねた人々の間で反体制運動が活発化してくることとなり、マルコス大統領は危機感を感じて戒厳令を施行せざるをえなくなった。

フィリピンで英語がよく通じるのはアメリカ統治時代の影響が今も残っているからである。ちなみに英語を話す人口はアメリカ、イギリスに次いで世界三番目の多さだとする説もある。確かにフィリピンでは年寄りになればなるほどうまく英語を話すことが出来る。しかし現在では母国語を大切にしようとする傾向があり、テレビやラジオの英語の占める割合が半分以下にまで下がってきてしまった。スペイン語や日本語の単語も非常に多く、生活の中にしっかりと根付いている。数多くの島々から成り立っているフィリピンは地方ごとに言葉も違う。おまけに他国からの侵略を何度も受けて、さまざまな言語がごちゃ混ぜになってしまった。公用語は英語とスペイン語が用いられ、親しいフィリピン人同士の会話はそれぞれの地方の自分たちの言語が使われる。北ルソンはイロカノ語、南ルソンではビコール語、ビサヤ諸島はビサヤ語といったぐあいに英語やスペイン語の他にもたくさんの言語がこの国には存在している。政府はマニラを中心とした言語であるタガログ語を新しい公用語として何とか国民の国家意識を高めようとしている。だんだんとタガログ語を理解する人々の数は増えてきている。テレビでもタガログ語が使われ、自国の言葉を重視する動きが起きており、学校でも授業でタガログ語を使う先生が増えてきている。アメリカ統治時代の英語教育を受けたお年寄りよりも、若い人ほど英語の力が弱くなってきている。英語が苦手な正樹からすれば英語を軽視する傾向は何とももったいないことだとおもう。

お手伝いのリンダは英語が下手である。家が貧しくて学校へは行けなかったからだ。勉強する時間があったら働けと親から言われ続けて育った。リンダに限らず学校に行けない子供はまだまだ沢山いる。リンダの後姿を見ながら正樹はフィリピンの近代史のことを考えていた。コーヒーを飲みながら何気なくリンダを見ていた正樹だったが、リンダにしてみればキッチンで調理をしている自分の姿を頭のてっぺんからつま先までしげしげと見つめられているわけで、正樹の視線を感じないわけにはいかなかった。リンダはちっとも正樹の視線を嫌だとはおもわなかった。初めて会った時から正樹のことが好きだったからだ。正樹にとってお手伝いさんとは小学校の頃に読んだ童話の中に登場する存在でしかなかったから、いつもいじめられているかわいそうな少女だと頭の中にインプットされていた。だから正樹がリンダと接する時は自然とやさしくなってしまう。またそのことがリンダにとっては大きな勘違いの原因となってしまっていた。

 

 

サンパギータ

 

写真のディーンとはマニラに到着した夜に軽く挨拶を交わしただけで、それ以上は何も彼女とは話が出来ずにいた。何度かアパートですれちがったのだが正樹はあまりの緊張のために言葉が出なかった。どうもディーンは別の世界に住んでいる人のように正樹にはおもえたからだ。彼女がもし日本の芸能界にデビューしたら瞬く間にトップ・アイドルになることは間違いないだろう。正樹はこんなにきれいな人を今までにグラビアでも見たことがなかった。ボンボンの弟のネトイがディーンと仲良さそうにふざけあっているのを目にするとただそれだけで何故か羨ましかった。近づきたくても近づけない圧倒的なオーラが彼女からは出ていた。

すっかり打ち解けたお手伝いのリンダをからかいながら正樹は朝食を待っていた。お手伝いのリンダとは気軽に何でも話をすることが出来るようになっていた。お互いの言葉が通じているのか、いないのかはあまり問題ではなかった。リンダが入れてくれたコーヒーを飲んでいるとビコールの実家に帰っているボンボンから電話があった。

「正樹、どうです。フィリピンは気に入りましたか?」

「最高です。もう日本には帰りたくない気分ですよ。」

「そう、それは良かった。案内しないでごめんなさいね。」

「いいえ、そんなこと、皆さん、とても親切にしてくださいますし、今だって、こうしてコーヒーを飲んでいるだけでも、僕はとても幸せな気分になっていますよ。この旅行に誘って下さったことを感謝しています。」

「正樹がそんなに喜んでくれて僕も嬉しいですよ。あさって、マニラに戻ります。そうしたら一緒にどこかに飲みに行きましょう。」

「ええ、それはもう、喜んで。」

「じゃあ、すみませんが、もう少し時間をください。日本での就職活動や滞在期間の延長の為に書類が必要なものですから、僕が生まれた場所にある役所に行かなくてはなりません。そっちのアパートの皆には正樹が困らないようによく言っておきますからね。どうぞマニラの休日を楽しんでいて下さい。では失礼します。」

電話が切れると、いつもは昼過ぎまで寝ているネトイがめずらしく朝食に顔を出した。

「今の電話、ボンボン兄さんからですか。」

「ええ、そうです。あさってこちらに戻って来るそうです。」

「そうですか。正樹は朝食はもう済みましたか。」

「いえ、まだです。」

 ネトイはまだ起きたばかりで完全にはまぶたが開いていない。またソファーに倒れこむように横になった。マルボーロを一本取り出して天井を見つめながら吸い始めた。

「正樹、朝食が済んだら、今日は僕がマニラを案内しますね。」

 ネトイの話し方はとてもゆっくりで、正樹を外国人として意識している。かなりなまった英語だが正樹は彼の言葉を他の誰よりもよく聞き取ることが出来た。今日の案内はディーンではなかった。ウエンさん、ノウミときたから今日はてっきりディーンの番だと正樹はおもっていたから少しがっかりしのだけれども、と同時に何だかほっとした気分にもなっていた。ネトイは丸いメガネをかけていて、アメリカの歌手、あのジョン・デンバーと同じメガネを愛用している。そのメガネをとってしまうと北京原人のような顔になってしまう。少しだけ歯も出ていて、一度見たら絶対に忘れない顔立ちをしている。不思議なことに彼がまじめな顔をすると実におかしい。どう言ったらよいのだろうか、彼を見ているこっちの方が何故か幸せな気分になってくるから不思議である。性格も志村ケンとタモリさん、そしてジョン・デンバーを足して割ったようなキャラをしている。そう、かなりそれに近い。兎に角、おかしくて、おかしくて、ネトイのことを見ていると訳もなく笑ってしまうのである。ボンボンにしてもオヘダのアパートを借りている大学教授の姉さんにしてもネトイの兄弟たちはみんな天才ぞろいである。ネトイ以外はすべてフィリピン大学を首席で卒業している。ネトイだけが学校を中退した。だから堂々と昼過ぎまでゆっくりと寝ていてよいのである。しかし、周りの人々を楽しませる彼の才能は超天才的だ。毎日ふらふらしていてもボンボンの姉さんはネトイを一番頼りにしている。ただいるだけで周りの人々を明るくしてしまうネトイはやはり天才なのかもしれない。そして正樹のユーモアのセンスは知らず知らずのうちにこのネトイから吸収していくことになるのだ。

 ネトイと二人で朝食を食べていると、ディーンが階段から降りて来た。まるでパリかミラノのファッション・ショーが始まったかのように階段から彼女は登場した。もうディーンは外行きの格好をしていた。そうか、ネトイと一緒に案内をしてくれるんだと気づいた時、正樹は圧倒的な幸せに満たされていた。男なんて単純な生き物である。しかしよく考えてみれば、ネトイがいてくれた方がかえって都合が良かったのではないか、ディーンと二人きりだと正樹は緊張の為に話しをすることすら出来ないだろ。きっとディーンも息苦しくてなって、正樹のことを嫌いになってしまうからだ。このネトイのでしゃばりは正樹にとっては大きな助け舟になった。

 三人は朝食を終えてからバス通りに出た。こちらのバスは日本語で書かれた行き先がやたらと多い。日本ではもう使われなくなった中古のバスの運転席を反対側に付け替えてこちらの右側通行に対応させている。古くなった日本のバスを改造して再利用しているわけである。ただバスに付いていた看板や行き先はそのままで「沼田農協行き」とか「宝光社前行き」のようにそのままにしてある。日本の中古車であることを示したいからそうしているのだろう。日本語のネーミングはこちらでは非常に多い。お菓子にしても「おいしい」、缶詰にしても「はこね」、蚊取り線香などは「かとる」である。中古のバスもそのまま日本製を強調している。正樹はこちらのバスに乗って驚いたことがもう一つある。それはどんなに車内が混んでいても女性が乗ってくると、男どもは我先にといっせいに立ち上がることだ。これは日本の男性たちはぜひ見習いたいし、また女性はこのようにいたわるべきであるとおもう。ただせっかく席を譲ってもお礼の一言も言わないで当たり前のような顔をしている女性もかなり見かける。特に中年以上の女性にそのようにふてぶてしい態度をとる傾向があるようで、この国のおばさんたちはもっと男たちの優しさを認識する必要があると正樹はおもった。

 この国のバスには車掌がいる。バスの車掌は日本ではワンマン・バスになってしまって、もうその姿を消してしまったがフィリピンではまだまだ活躍している。たとえバスから乗客がこぼれ落ちそうなくらいに込み合っている時でも車掌はどこからともなく現れ、しっかりと料金を徴収していくのである。さらにバス会社はこの車掌たちをまったく信用していないので検察官を抜き打ち的にそれも頻繁にバスに送り込んでくる。検察官は乗客が正しい切符を持っているかどうかを確認しながら、車掌のことも見張っているのである。日本と違って人件費がべらぼうに安いから出来る経営戦術なのである。

 正樹はバスはとても好きだが、今日はディーンが一緒なので出来るだけきれいなタクシーを選ぶことにした。どうやら男は好きな女性には見栄を張りたがる生き物のようで、もしその気持ちをずっと持ち続けることが出来れば結婚してからもきっとうまくいくのだろう。

 ネトイとディーンが案内をしてくれたのはマカティ地区だった。高層ビルが建ち並ぶ現代的な町でこの国の商業の中心地だ。銀行、デパート、レストラン、映画館、ほとんどの大企業のオフィスがこのマカティ地区に集中している。日本の企業もここに事務所を設置している。そして大通りの反対側には大邸宅街があり、フォーベス・パークと呼ばれ大金持ちのお屋敷がずらりと建ち並んでいる。日本人には想像することが困難なくらいの豪邸が競い合うようにして並んでいる。フォーベス・パークは高い塀で囲まれていて、その中に入るには厳しい検問がある。居住者であることを示すステッカーがない車は停車を命じられ、さまざまな質問を受けることになる。タクシーの場合、運転手は免許証を門番に預けなくてはならない。悪いことをしないように免許証を人質にとられるわけである。正樹たちを乗せたタクシーもイカツイ顔をしたがガードマンが窓から車の中を覗き込んできて正樹が日本人であることでやっと入場を許可された。フォーベス・パークの中はまるで別世界であった。マニラの混沌とした町が砂漠ならば、ここは樹木がうっそうと生い茂るオアシスと言った所だ。道の両側には豪邸が高い塀に囲まれるようにして建ち並んでいた。高級車が何台もその大きな門に吸い込まれていた。ライフル銃を持った警備のガードマンが各家々の門のところには立ち、この国の富と財宝をしっかりと守っていた。日本にいてはあまり感じることが出来ない「貧富の差」というものを正樹はここに来て初めて実感した。と同時に自分たちを守るために必死になっている富豪たちはとっても大変な人種なんだなと正樹はおもった。お金が増えると問題も増えるわけで、お金はないと困るけれども増え過ぎても困るものらしい。ほどほどが一番のようである。

 太い樹木に覆い被された道をしばらく行くと緑の広がる丘に着いた。そこは墓地だが日本の墓地のような暗さがまったくないアメリカ記念墓地であった。また戦争の傷跡を見せられるのだと正樹は覚悟した。ここには第二次世界大戦中、フィリピンで戦死した一万七千のアメリカ軍人の遺体が安置されているそうで、白い十字架が緑の芝生に戦死者の数だけ整然と並んでいる。不謹慎にも正樹はその緑の大地と白い十字架が並ぶ様を見て美しいと感じてしまった。あの不幸な戦争で犠牲になったアジアの人々は二千万人以上とも言われているのだし、日本軍にしても日本本土以外ではフィリピンで戦死した者がもっとも多く、五十万人以上の兵隊があちらこちらのフィリピンの山々や海で故郷日本に再び帰ることを願いつつ命を落としているのである。犠牲になったアメリカ軍人の墓を見て、ただ「美しい」だけではすまされない話である。正樹は静かに合掌して戦争で命を落としたすべての人々の為に冥福を祈った。中央には記念塔と戦闘の経緯を表した地図がモザイクで刻み込まれている。現地マニラの日本人学校の生徒さんたちには是非この記念墓地を訪れて戦争の悲惨さと過去に日本が犯した過ちを認識学習してほしいと正樹は願った。日本人学校の先生たち、どうか遠足などでこのアメリカン・セメタリーに一流企業のお子様たちを連れて来ていただきたい。そう正樹は切に願うのであった。

 正樹は白い塔の前に立つディーンの姿を写真に撮りたかった。カメラを持っていないことをこれほど悔しくおもったことはなかった。このアメリカ記念墓地はよく清掃がされていてゴミ一つ落ちていなかった。また訪れる人も少なく、この広い丘の上には三人の他には誰もいなかった。シーンと静まり返った静寂な空間の中で三人は一万七千本の十字架が丘いっぱいに描く模様を眺めていた。大理石でできたベンチに座ってただじっと白い十字架を見つめていた。時間が経つにつれて三人はだんだん場違いな雰囲気になってきていた。ネトイが突然立ち上がり隣のベンチに移動した。正樹とディーンが何とは無く彼のことを見ていると、ネトイは隣のベンチの上で自分の両腕を自分の体におもいっきり巻きつけて独りでアベックが抱き合っている姿を演じ始めた。正樹はディーンと顔を見合わせておもわず笑ってしまった。緑の丘にはまたさわやかな風が吹いてきていた。

 アメリカ記念墓地を出ようとした時、制服を着た警備兵が正樹に近寄って来た。あたりを見回しながら手に持っていた警察のキャプテンのバッチを正樹に示し、本物だから買わないかと言ってきた。本物だとしきりに強調するところをみるときっと偽物に違いない。しかしそんなバッチは何の役にも立たないし、持っているとかえってヤバイような気もした。もし帰りの空港で見つかったら金をふんだくられるかもしれない。だから「いらない」

と何度も断ったのだが、その警備兵は異常なまでに売り込みを続けるのだった。その必死の形相は尋常ではなかった。正樹はきっと彼の奥さんのお腹でも大きいのに違いないと思い直して買うことにしたのだった。ネトイが初めの言い値の三分の一の値段まで交渉して下げてくれた。バッチを売った後、その値切られた警備兵はブーブー言いながら立去って行った。正樹はそのバッチを今でもディーンの記念として大切に持っている。

 次に三人が訪れたのはナヨン・フィリピーノであった。フィリピンの各地方の文化を紹介するためつくられた公園で、日本のユネスコ村のようにフィリピンの風土や民家、生活の様子を小型にまとめて展示紹介している。広い園内を一周するとあたかもフィリピン全土を一周したような気分に浸れるようになっている。園内には花が咲き乱れていて、心地よい風も吹いていた。ただ隣に国内線の滑走路があるために時折、物凄い音を立てておんぼろ飛行機が離発着していた。正樹はここでもディーンのことを撮るカメラがないことが悔やまれた。熱帯の花は美しい。フィリピンの花もその例にもれない。やや淡いやさしさをただよわせているゴマメーラはその代表で、この国には数え切れないほどの美しい花が咲き乱れている。

 ディーンが立ち止まった。白い花を指差しながら正樹に言った。

「マサキ、この花はね、フィリピンの国花、国の花、サンパギータですよ。ちょっと香りをかいでみてください。」

 正樹はその白い小さな花に顔を近づけてみた。かすかにやさしい香りがした。それはまるでディーンの香りのようでもあった。やさしい香りだった。きっと正樹はサンパギータの花を見る度にディーンのことを思い出すことだろう。サンパギータ、小さな花だけれども強烈に正樹の脳裏にその姿、香りは記憶された。

ただじっとしているだけでも熱いマニラ、騒音と排気ガス、混沌と貧困、そんなマニラだが、正樹は独りぼっちだった日本の生活よりも、この地で皆で助け合って生きているボンボンの家族がとても羨ましかった。決定的な理由はディーンの存在だったかもしれないが、ウエンさんの優しさ、ノウミのナイス・ボディ、リンダの愛嬌、ネトイのユーモアなど、そのすべては人間が作り出している素晴らしさである。確かに今は日本よりも経済的には恵まれていないフィリピンだが、正樹はみんなといつまでもこの国に一緒にいたかった。

サンパギータ、正樹が初めて知った白い花。やさしい香りの花だった。

 

 

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