硝子の時代考証―9
「江戸時代−1/ 長崎ガラス」
中国大陸や東南アジアとの交易港として、早くから日本の窓口と
なってきた長崎は、外国文化の受容が最も早くに進んだ土地であった
「製品」
手の込んだ吹きガラスはなく、バラエティーに富んだ表面加工を施した
薄作り製品が主流。
櫛、箸類、猪口、杯、小壺、茶碗、玉灯籠、玉細工の煙草盆やガラス棒細工の
鳥籠や重箱などのほか、祭りの傘鉾に至る多種多様な製品。
「製法」
・中国技法の徐冷処理不要な薄作りの色ガラス製品から作り始めた、と考えられる
(江戸中期頃のガラスは、薄作りのため表面にカットを入れることはできなかった)
・器の表面に金泥や油彩や泥絵具で花紋などを絵付けしたり蒔絵の絵付けが
施されていた。
・江戸中期頃より、オランダで流行していたダイヤモンド・ポイント彫り(ギヤマン彫)
の文様で花紋や吉祥図紋を彫りこむ装飾法も行われていた。
・江戸末期には漆で錫箔を貼り付けて文様を表した上に彩色を施すという技法も現れた
「素材」
鉛ガラス
「制作場所など」
長崎
「代表的な長崎ガラス製品」
硝子の時代考証―10
「江戸時代―2/ 大阪ガラス」
長崎の商人であった播磨屋清兵衛(性は久米)は、長崎でビードロ製造の技術を習得し
宝暦年間に大阪に移った。
そして天満天神の前に工場を設けて、ビードロの製造を始め、簪、盃、そのほか種々の
細工物を作って売り出した。その後養成職工が相次いで独立しガラス工場を設けたため
大阪のビードロ製造は著しく盛んになった。
「製品」
徳利、盃、皿、各種色ガラス玉、ポッペン、型吹きの盃、碗など
「製法」
長崎ガラスに同じ
「素材」
長崎ガラスに同じ
「制作場所など」
大阪、天満天神 / 北区天神橋筋
硝子の時代考証―11
「江戸時代―3/ 江戸ガラス(江戸切子)
長崎から大阪や京都への技術の伝播の時期とほぼ時期を同じくして
江戸のガラス製造は始まった。
当時ガラスの製造に於いては江戸よりも大阪がはるかに進歩していた
ため、加賀屋文次郎は大阪にて修行し、江戸・大伝馬町に加賀屋九兵衛と
改め、眼鏡の制作を始める。そして天保5年、金剛砂を使用して硝子面に
彫刻を施す事を始める。これが江戸切子の始まりである。
また、九兵衛は輸入品のみであった医療用硝子器の制作を日本で初めて
手がけている。
上総屋留三郎は、工場を浅草南元町に置き、簪、風鈴類を製造販売している
この加賀屋と上総屋の2人は製造問屋となり江戸ガラスの祖と位置ずけられる
「製品」
加賀屋の引き札には、オランダ物も長崎の物も江戸ガラスも全て収録されている
製品内容は玉類、風鎮、簪、風鈴、金魚鉢、切子諸道具、ガラス食器類
玉細工、ガラス棒細工、理化学器具など。
単色で、器形は単純、主として小型の製品が多かった。
小置物、ガラス玉細工、棒細工、などの細工物には江戸人らしい粋好みが
良く発揮されている。切子ものとしては蓋物、段重、瓶、脚付き杯などがある
「製法」
・江戸ガラスの多くは、個人窯の零細な規模で作られていて、
切子加工には入念な作業が行われたが、菱切子の山形にはあまり鋭さがなく
全体として甘い切子線となっている。
・切子加工はヤスリ細工として、棒状のヤスリを使用し、一つ一つ手によって
削られていた。(12段階の手摺り加工)
・ガラス素地の表面の荒れを取り除くように、素材の隅々まで切子を施している
・切子を回転板で加工し始めるのは、明治末になってから。
「素材」
無色、淡緑色、淡黄褐色、淡黄緑色などの淡色鉛ガラス。
重量は非常に重く、鉛の含有量は40〜50%以上あるものが多い。泡、・石粒
などの混入物はむろんのことで、時には鉛玉まで入っている物がある。
「制作場所など」
江戸、大伝馬町から始まる。
硝子の時代考証―12
「江戸時代―4/ 薩摩ガラス(薩摩切子)
わが国のガラス工芸に於いて、薩摩ガラス、とりわけ薩摩切子は
現代を別にすれば、最も優秀な技術を使って最高の美的品位を生み出した
わが国最初の本格的ガラス工芸であった。
しかし薩摩切子は、幕末の混乱期僅か20年足らずの間に、突然興って、又
突然に廃絶してしまった。
薩摩藩 鹿児島中村の騎射場跡に島津斉輿公により製薬館が創設される。
医薬製錬ためガラス器が必要なため、当時江戸源助町に住むガラス職人、
四本亀次郎を呼び寄せガラス製造を行わせる。
島津斉彬の代になり、銅粉により紅色を発色させる紅色ガラス・黄金によって
透明感のある紅色を発色させる紅ガラスを創製するようになる。
また、紅色ガラスを使用した各種の器を製造し、さらに青黄白紫の色ガラスを
用いて切子を施した美しい器も製造するようになる。
その後、安政2年工場を集成館に移す。(規模は銅赤ガラス窯×2基 金赤ガラス窯×1基
鉛ガラス窯×大小数基、工人200人)
しかし、ガラス工場の事実上の推進役であった、藩主・島津斉彬が安政5年に急死し、
工場規模が縮小され、さらに文久3年薩英戦争の時に英国艦の直撃弾を受け、炎上し
復興されぬまま廃絶してしまう。
「製品」
・銅粉により紅色を発色させる、また黄金によって透明感のある紅色を発色させる
紅ガラスを用いて、また、青黄白紫の色ガラスを用いて切子を施した美しい器を
製造。
・皿鉢類・蓋物・瓶・花瓶・杯・急須(チロリ)猪口などの和洋両用の食器
・板ガラス
・船舶照明用の青・緑・赤色ガラス
「製法」
江戸ガラス(江戸切子)が基本になりガラス器を製造。
江戸ガラスにはない、色被せガラス(ボヘミアの色被せガラス技法、あるいは
中国法 / 東洋には切子の技術はまだない)の製法を取り入れ制作されたガラスに
四本亀次郎(当時江戸で評判の吹き職人)によってもたらされた江戸切子の技法により
切子の入った器を制作する。(現代の色被せガラスとは違い、色が厚く被せてあるので
切子を施すと色被せにグラデーションが生じる)
「江戸切子と薩摩切子の違い等」
・江戸切子の場合、松前藩の藩窯のような若干の例外はあるが、そのほとんどが
民間の個人窯であり、設備も技術も未熟なものであった。
これに対し薩摩切子は、藩窯として人材と経費を惜しみなく使い、当時の最高技術を
駆使して、相当に完備した大工場で作られていた。
・薩摩切子は、藩窯であったため島津斉彬が急死すると廃絶するが、江戸切子は
民間の個人窯であり庶民を対象に活動していたから生活の中に浸透し、現在に
至るまで受け継がれている。
・江戸切子には色被せガラスがほとんどない。
・江戸切子の中で無色の鉛ガラスに切子を施したものは、薩摩切子よりも優れた物が
作られていた。
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