トルコ航空はイラン・イラク戦争の時に日本人を救出した。しかも陸路での脱出ができるトルコ国民より日本人の救出を優先してくれた。
トルコはアメリカより親日的な国である。

トルコの軍艦エルトゥールル号遭難事件

トルコの軍艦が和歌山県串本町沖で座礁遭難し、500名以上の犠牲者を出した。(明治23年)親善訪日使節団として来日し、トルコへの帰途の事だった。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当てを行なったがお互いの言葉が通じず、万国信号本を使用して遭難したのがトルコ軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。その一方で残る587名は死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡の為神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦ウォルフが大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された。沖村長は県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が難者のために寄せられた。
遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、日本海軍の「比叡」と「金剛」が、遭難事故の20日後の10月5日に、東京の品川湾から出航、神戸で生存乗員を分乗させ、翌年の1891年1月2日にイスタンブルに送り届けた。
新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、トルコの人々は、日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。

トルコの日本人救出作戦(イラン・イラク戦争における)

イラン・イラク戦争で、イラクのフセイン大統領は、イラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。各国は期限までにイラン在住の自国民をテヘランのメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客機で救出したものの、日本は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援が出来なかったうえ、日本航空はイランとイラクによる航行安全の保証がされない限り、テヘランのメヘラーバード国際空港行きへの臨時便は出さないとし、在イラン邦人はメヘラーバード国際空港の出発ロビーで、誰にも助けて貰えない危機的状況に陥った。野村豊イラン駐在大使が、トルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ、ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも。」と答え、大使の要請を受けてトルコ航空は自国民救援のための最終便を2機に増やしてくれたので、215名の日本人はこれに分乗し、期限ぎりぎりで危機を脱することができ、全員、トルコ経由で無事に帰国できたのである。

トルコ国民より日本人を優先

さらにトルコ機は、トルコがイラン近隣に位置することから、陸路での脱出もできる自国民より、日本人を優先して救出した。実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出した。
時の駐日大使、N.ウトカン氏は次のように語っている。
「エルトゥールル号の事件に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちでさえ、このことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
タイムリミットの1時間15分前であった。

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