2009年2月
信心すでに えんひとは つねに 仏恩報ずべし 「浄土和讃」

「宗教」「信仰」「信心」・・・いろんな言葉がありますが、その基本はどういうことでしょうか。
お念珠を持ち、浄土真宗の式章をかけて、掌を合わせれば、真宗の門徒、仏教徒と
思いこんでおられる方も多いのではありませんか。
「宗教」とは、格好をつければいい・・形式が大切だから、と考えておられる人も少なくありません。
たしかに、形式から「宗教」や「信仰」に、入られる方も少なくありません。でも、
やはり形式のみにとどまっておられる人が多いのも事実です。

「宗教」「信仰」「信心」・・・とは。実は、自分自身が人生のなかで、何を一番大切なものとするかを定める、
いわば価値観の確立を意味することなのです。
そのことを仏教的に表現すれば、「ご本尊」をいただくことといえるのです。

「ご本尊」だったら、お仏壇の「ご本尊」。お寺の「ご本尊」・・・「今さらいわれるまでもない」と、おっしゃるかも知れません。
でも、今、問題にしようとしているのは、形式的な「ご本尊」のことではありません。
先に、申しましたように、あなたは自分の人生で何を一番尊いものと定めておられますか。
そして,その尊いものを、自身の言動や判断の原点とされていますか、ということです。

私たちは無意識のうちに、自分の経験を、判断、行動の基準としていることが多いのですそれは無意識のうちに
自分自身を「ご本尊」としているのではないでしょうか。さらに、深く自覚していないでしょうが、
経済的価値観を何よりも優先して、行動し、判断しているのが現代社会あると言っても、今や過言ではないと思われます。
ならば、お金を「ご本尊」としているのではありませんか。

阿弥陀さまをご安置し、おつきあいの「お寺」があって、真宗の門徒といわれても、
案外阿弥陀さま以外を「ご本尊」とされておられることが多いようです。

阿弥陀さま、仏さまを「ご本尊」とし、その教えを依りどころとして、意識して生きようと努力される方を、
本当は真宗門徒、仏教徒というべきです。ただし、自覚的信仰を持って生きることは、
わがままに、自己中心に生きようとする者には、窮屈なものともいますしかし、
そこに人間として、尊い生き方が明らかにされ、二度とない人生であるからこそ是非とも、尊く、豊かで、
後悔のない生涯であれと願うべきでしょう。
それを示してくださるのが、仏さまの教えです。
ですから、教えにあわせていただいたことが、ご恩として慶ばずにおられないのです。