2009年3月
念仏成仏 これ真宗 万行諸善 これ仮門


現在、真宗の門徒と名のられる方は大勢おられます。
ところが、「あなたはどうして浄土真宗の門徒となられたのですか」
とおたずねしたら、それに対して、はっきりと理由が答えられますか。
答えることのできる方は、案外少ないようです。
たいていは、「先祖代々、○○寺の門徒だったから」と答えられるのではないでしょうか。

まかには、「親鸞聖人の教えのすばらしさに感動したから、浄土真宗の門徒となりました」と、
仰る方もおられます。しかし、あくまで少数派です。

そして、「先祖代々、門徒・・・」といわれた方に、それでは、「よく浄土真宗の教えを理解されていますか」
重ねてお訪ねしますと、どうでしょうか。自信を持っておられる方は、これも少数と言わねばなりません。

こおのような現象は、長い歴史のなかで、自分の信ずる大切な宗教を、自ら選択することが許されなかった、
歴史的な制約が作り出したものと言えましょう。江戸時代、一般の人々は自らの意志と責任において、
自分の信ずる宗旨を、選択することが許されませんでした。ただ一度、その宗旨を選択すると、
その人の子孫は、どんなことがあっても同じ宗旨を継承していかなければならないように強いられていました。
ですから、浄土真宗の家庭に生まれたならば、その人は真宗門徒になる以外は、許されなかったのです。

世代が重なるに従って、その宗旨に対する門徒、信者としての実感、責任感はうすれ、
形式的な信者になっていくことはむしろ当然と思われます。自分の責任において信仰できないからです。
そして、真宗をはじめ、仏教全体が亡くなられた人々の弔いを中心とするように方向づけられていきました。
仏さまの教えが、現実社会を生きる人々に、マコトの目覚めを与えないように・・・。
それが政治の狙いであったようです。

今さら、伝統を否定しようというのではありません。否定するのではなく、「たまたま遇えた浄土真宗」という事実に、
もっと積極的な意味を感じていただきたいのです。もっと浄土真宗に対する認識を深くしていただきたいのです。

自分たちの先祖は、さまざまな宗教、宗旨があるなかで、なぜ浄土真宗を選んだのだろうか。
そして、この浄土真宗という教えが、単なる形式ではなく、いまの私にどんな意味を持っているかを、
深く意識していただきたいのです。

もし、その意識がなかったら、誠実な人生は開かれません。
同時に宗教の真実も、不実も関わりありません。