2009年4月
南無阿弥陀仏を となうれば この世の利益 きわもなし 「浄土和讃」

「南無阿弥陀仏」とは、どんな意味でしょうか・・・。とたずねられても、
案外、答えられないのではありませんか。
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を、六字名号といって「ご本尊」といただき、
その教えの中核をなす仏さまのみ名です。
ですから、その基本が理解されなければ、素晴らしい教えもからまわりしてしまいます。

実は「南無阿弥陀仏」は、インドの言葉の発音を、そのまま漢字で表記したものなのですだから、
このままでは意味を理解することはできません。

さて、基本的に「南無」という言葉は、尊敬する、礼拝する、という意味です。
「阿弥陀仏」「無量寿仏」・・・かぎりない寿命のブッダ、「無量光仏」・・・かぎりなき光のブッダ、
という二つの意味になります。
ですから「南無阿弥陀仏」とは、私は、限りない寿命と光のブッダを尊敬し、礼拝しつつ、
自らの人生を送ります・・・と、仏さまに申し上げている言葉なのです。

私たちは、たいてい自分の経験を、ほぼ、すべての判断の依りどころとし、
自己中心的な生活を営んで、そのことをあまり顧みません。
そのような私たちが仏さまを敬い、仏さまを中心にものごとを判断するように努力し、
仏さまに導かれる生き方こそが「南無阿弥陀仏」の生き方なのです。

ところが、何事も自分中心に考える私たちは、「ご利益」についても自己中心的に考えます。
自分の願い事、祈願が叶えられたら、霊験のあらたかな、神さま、仏さまとあがめ、尊びます。
しかし、それが自分のわがままな願望が、偶然に満たされたということに他なりません。
わたしたちは、自分の欲求が満たされることを「ご利益」「お救い」と考えがちです。ですが、
それは宗教における「利益」とは、本質的に異なっています。

自己中心的な考え方が、本当は克服されねばならないことを教えられることこそ、「ご利益」「救い」というのです。
阿弥陀さま、仏さまを敬い、拝みつつ生きる。言葉では簡単ですが、その仏さまのこと自体、はっきりと意識し、
理解されているでしょうか。案外いいかげんなのでは。そのことを、まじめに考えるべきでしょう。

平素、わかったつもりで「仏さま、仏さま」といっていますが、実は何も内容を知ろうともせずに、
ただ言葉だけを使っていることに気づくべきです。「きわもなき利益」とは、仏さまを依りどころとして、
生きようとする生き方が恵まれること、そのこと自体だったのです。