2009年5月
仏法不思議と いうことは 弥陀の弘誓に なづけたり    「高僧和讃」


「まか不思議」・・・。一般には、わけのわからないこと。人間の常識で理解できない不審なことを、
「不思議」ということが多いようです。そして、「だから、宗教は信じられない。嫌いだ」といわれる方がおられます。
その反面、超常現象や、超能力、霊能力などを具えているというだけで、宗教的超人であるかのように思いこんで、
さまざまな宗教に入信されていく方々も少なくないようです。現代人は、このように宗教を非科学的と嫌う一方、
それ故にこそ、惹かれていくような一面があります。

超能力・・・。人は空に浮く、水中で息をこらえつづけることができる、予知能力がある、霊感がある・・・。
でも冷静に考えてみて、鳥たちは当たり前に空を飛んでいます。魚は水中でしか生きることができません。
人間が鳥並みの能力を持ったとして、宗教的にどれほどの価値があるのでしょうか。
また、人が魚と同じになって、どうしたというのですか。
おられないと思いますが、万一、超人的能力を持った人がおわれたとしても、
宗教的には別に「不思議」でも、何でもないと思うべきです。もし、おられたとしても、
その能力と宗教的な意義の間に、どんな関わりがあるのでしょうか。このようなことに対して、
しっかりとした視点がもてないところに、現代人の宗教に対するもろさがうかがえます。

鳥や魚の能力を身につけて、さらにはもっと奇抜な能力を身につけて、他人と異なることを誇るよりも、
その「鳥」や「魚」をいただかなければ、自らの”いのち”を養うことのできない現実と、自分が生かされていることに
深く気づくことの方が宗教的には深い意義があると思います。他人と異なる能力を誇るより、
だれもが当然と思って、かえりみることを忘れている事柄の中に、尊く、重大な事を感じ取ることこそ、
宗教、信仰のもっとも大切な役割というべきなのです。

私たちは無自覚に自分を敬い、自分を中心に現実をとらえ、自分の生存を当然として発想し、
行動しています。ですから、さまざまな善意と犠牲の上に生かされ、そのなかでしか、
一日たりとも生きることのできない、すさまじいばかりの現実に全く気づこうとしません。
そして、傲慢に、無感動に生活をしています。そんな私が、ことの重大さに気づかされ、
感性が逆転されていく姿こそが、合掌の姿であり、仏さまを仰ぐ姿なのです。

それこそが、実に、あり得がたい「不思議」な姿なのです。それは、仏さまから願われることによってのみ、
開かれていく尊いできごとなのです。