009年6月
ながく生死を すてはてて 自然の浄土に いたるなれ       「高僧和讃」

「四苦・八苦」という言葉があります。現代では日常用語にも使われますが、もとは仏教の言葉です。
お釈迦さまは「人生は苦なり」といわれました。その「苦」を「四苦」「八苦」と分類されたのです。
「四苦」は「生・老・病・死」の四であり
「八苦」は合わせて「愛するものとの別れ」「憎むものとの共存」
「求めても得られない不満」「自分の身と心が思うとおりにならない現実」を言います。


あらためて「苦」とは、どのようなことでしょうか。「苦痛」「苦悩」「苦しみ」などといわれます。
仏教でいう「苦」を現代語で表現すると、「不幸」という言葉が適当かと思います。
すると「苦」に対する「楽」は「幸福」という言葉にあたります。ただし、本来「幸」も「不幸」も、共に感性の問題であって、
事実の比較で判断するものではありません。えすから、「幸」「不幸」は、経済的に豊であれば「幸福」かというと、
そうとは限らないことです。

このように感性の問題として「生・老・病・死」を考えますと、もとから「苦」と定まったものではないことが知られます。
「生・老・病・死」は”いのち”の有り様に他なりません。生まれて死なない”いのち”がないように。

私たちは、「生」を慶び「死」を嫌い、避け・・・。若さを尊び、老いを嫌悪し、健康を願い、病気を嫌います。
ですが、「生・老・病・死」のない”いのち”はありません。

お釈迦さまが「生・老・病・死」を「苦」と説かれたのは「生・老・病・死」を「不幸」と
感受することの愚かさを知らせてくださったのです。生まれてきたことを「不幸」と感じること、老いを「不幸」と、
病を「不幸」と、そして死を「不幸」としか感じられない、愚かで誤った感性。それを明らかにされたのです。

たとえば、「老」とは、だんだん体力、気力が衰えていく現実です。むしろ当然といわねばなりません。
それはより多くの人の世話になる率が高くなっていくことです。
他人の世話になることを敗北感としか感受できないところに、「不幸」「苦」はひそんでいます。
実は、若い人も、老いた人も、さまざまな世話をいただかねば生きられません。
「老苦」を超えるとは、若さを保つことではなく、より多くの世話をいただける身を、幸せと感受出来るか、否かです。
でなければ、すべての”いのち”は「不幸」によって終わってしまうのです。

その「苦」なる感性をすてて、「生」と「死」を同じように受け止めることのできる世界を、浄土は私たちの教えるのです。