2009年7月
信は願より 生ずれば 念仏成仏 自然なり 「高僧和讃」

親鸞聖人はマコトの「信仰」「信心」は、人間の考えから生まれるものではないと、味わわれました。
そして、人間が真に仰ぐべきものは、人間を超えたものから恵まれねばならないといわれたのです。
私たちは、人間を超えたものから、本当の自分自身を知らされなければ、正しい自分を知ることができません。
なぜならば、何ごとも自分の欲目、自己中心的に見ているからです。

たとえば、毎朝、見ている鏡に映る自分の顔ですが、ほとんどの人は、それが自分の顔のありのままと思いこんでいます。
何十年と見続けている自分の顔ですが、それが、自分の欲目を通して見ている顔であることに、気づいている人は少ないでしょう。
自分の顔と思っていても、実は自意識を通して見ている顔なのです。ですから、鏡に映っている顔は
あなたが無意識のうちに作り出した、自分が一番気に入っている「いい顔」なのです。

外見でもこのような私たちに、マコトの自分の内面が知れる筈がありません。だからこそ、「真実」「マコト」は、
人間を超えたところから恵まれるものだるといわれたのです。それを、仏さまより恵まれるといわれたのです。

「信仰」とか「信心」という、「宗教」に関わるものは、人間の側から願うものではなく、
私たち人間自身が願われるところから恵まれるものです。「願い」は、ものごとが完成された時にはおこりません。
「何々がしたい」「このようになりたい」という願いは、不完全、不満からおこるこころです。

「経典」には、阿弥陀さまの「願い」が説かれています。それは、私たちへの不満足からおこった「願い」といえましょう。
仏さまは私たちに満足しておられないのです。完成されたものとして、安心して見ておれなかったのです。
・・・私は十分に完成しているつもりなのですが・・・。その誤解がもっとも心配の種とおっしゃることでしょう。

その誤解を解くために、阿弥陀さまは「願い」を立てられたのです。そして、私たちは
その「願い」に耳を傾けることによって、マコトの自分に気づかされます。それは、一言で言えば「厚顔無恥」です。
自らの「無恥」に気づかせていただいたことは、それを恥ずかしいと自覚することです。そして、
そこから恥ずかしくない自分を目指そうとする意志が生まれてきます。そこに「宗教」「信仰」「信心」ということが成立します。

願われた者としての自覚は、願ってくれた者を目指す自覚へとなっていきます。そして、やがては願う者へと育てられていくのです。