2009年8月
大悲ものうきことなくて つねに 我が身をてらすなり    「高僧和讃」

「ものうき」とは、「正信偈」には「倦」の字を用いて「大悲無倦」と記されています。
「慈悲」には「倦怠感」「もう疲れた」「もうやめた」がないことをあらわされています。
「慈悲」の「慈」とは、古代インドのサンスクリット語の「マイトリー」を訳した漢字です。
意味は利害の絡まない純粋な愛情、友愛といわれています。漢字の意味は、小さく、
幼い者を育てる親の心をあらわしています。人の幸せを実現することを、
自らの幸せと感ずるこころといえましょう。
「悲」は「カルナ」の訳で、悲しみ、悲痛を共感することを意味しています。
漢字は心を裂かれるような、切ない感情をあらわすといわれています。
いずれも言うは易く、行うは難しです。

しかも、いくら愛を注いでも、なかなか受け入れようとしない者に対したときの、その切なさ、悲しみ・・・。
しかし、それでも見捨てることの出来ないこころを、「大悲無倦」とあらわされたのです。

「讃仏偈」には、
 吾誓得仏 普行此願 一切恐懼 為作大安
 われ誓う、仏を得たらんに、あまねくこの願いを行じて、一切の恐懼(の衆生)に、
 大安をなさん、と説かれています。そして最後は
仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔
 たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔い じで終わります。

法蔵菩薩はすべての恐れやおののきのなかで生きねばならない人々のために、
大いなる安らぎを実現していこう・・・と、決意されたのでした。そして、その実現のために、たとい、
自らの身を無間地獄のそこに止めることがあったとしても。そしてその人々から一言の礼がなかったとしても、
自らの願いが実現するまで、勤め、励んで、決して後悔することはないといわれています。

それこそを「仏心」といい、まさに「大悲無倦」といいます。自分の満足ばかりを追究する、
私たちの生き方とは真反対といえます。こんな私たちが、「大悲」に包まれていることを実感し、
感動することができるのが、仏前にて「讃仏偈」をお勤めさせていただくときでしょう。いつも、
いつも休み無く、決して落胆することなく、「もうやめた」の無い慈悲の世界が、
私たちを支え包んでくださっています。