2009年9月
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり     「正像末和讃」


阿弥陀さまは人々を、摂め取って捨てないと誓われました。故に、
私たちは「無上覚」といわれる、この上ないさとりに至ると、親鸞聖人はあらわされました。

「無上覚」、この上ないさとりに訳されます。この言葉は「さとり」という内容の最高性をあらわしています。
また、親鸞聖人は「さとり」の超人間的な面をあらわされて、「不仮称、不仮説、不可思議」の
領域ともいわれました。しかし、何とかその内容を言葉で表現されようとして、「一子地」という
言葉を用いられます。

人間の自我中心の愛憎を超えた、怨親平等 のこころを実現して、
あらゆる人を親がかけがえのない一人子を愛し、慈しみ、身も心も尽くして育て上げるように、
いかなる人をも、一子の如く受け入れていく境地を「一子地」とあらわされたのです。
私たちが愛情を抱え、それを当然と考える生き方と、真反対のありかたです。

「憎悪」、それは自分に都合の悪い者や状況に対して抱く、憎しみの感情です。
「親愛」、自分の都合の良いものに対して限りなく愛着する感情です。当然というべきでしょうが、
その愛情の基準は自分の都合に他なりません。ですから、愛も憎しみも共に自分が中心にものごとを
受けとめる、自分の心が描き出した虚像に過ぎないのです。それを実体視して本当は虚像であるものに
振り回されているところに、私たちの愚かで、悲しい生き方があるのです。虚像を虚像と見抜くことを
智慧といいます。

あらゆる人々を、摂め取って捨てず、「摂取不捨」といわれた、仏さまの言葉こそ怨親平等の
智慧が言葉となって、愚かな私たちをよび覚まそうとされているのです。親鸞聖人はその心を、
 摂ねとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
 摂はものの逃ぐるを追はへとなるなり。
 摂はをさめとる、取るは迎え取る。
とあらわされました。

ここには決して捨てぬという思いは、仏さまに背を向けて逃げていこうとする者をも追い求めて
いこうとされる、深いお心が示されています。

このような言葉をこころに聞き受けた者は、仏さまの心の広大さ、偉大さに深い感動を持つと共に、
自分自身の愚かさを自覚させられ、自らの今の状態は、本来は超え、離れるべき姿であると
知らされます。
そして、自らが、この「無上覚」をめざし、「摂取不捨」の境地こそ、求めるべきものであるという、
新しい目的に目覚めしめられるのです。