2009年10月
智慧の念仏 うることは 法蔵眼力の なせるなり     「正像末和讃」

「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所・・・」。
「正信偈」のはじめの言葉ですから、「お勤め」で親しみがあるはずです。
この言葉は「無量寿経」によって造語されたののです。「無量寿経」には次のように説かれています。
 はてしない昔、ある国に世自在王仏という名の仏さまが出現されました。そこで、国の王は仏さまに
おまいりに行かれたのでした。そして、世自在王仏の説法を聴聞したのです説法を聴聞した国王は、
そのすばらしさに感動して、自らも世自在王仏のような仏になりたいという願いをおこし、
出家の修行僧となったのです。
そのときの名を「法蔵菩薩」とも「法蔵比丘」ともいいます。この法蔵菩薩こそ四十八願(本願)を建て、
修行を重ねて、やがて「阿弥陀仏」と成られる方だったのです。

 仏教ではさとりを完成された方を「仏」「如来」とあらわし、さとりを目指して修行中の方を「菩薩」と表現します。
 この「無量寿経」の「お話」は、遠い昔に実際あった歴史的事実を伝えたものではありません。
ですから「法蔵菩薩」とは、今から何千年ほど昔の方なのですかと、問わないでください。この「お話」は、
私に「仏さま」の何たるかを伝えようとされたものだからです。

 教えによって人間の価値観が変わり、人生の目標が変わる。それを「教化」といいます。国王が国を棄て、
王位を棄てる・・・考えられますか。でも、これは仏教の価値観を象徴している「お話」なのです。国王とは、
人間誰もが求める、すべての欲求が満足した、思うままの生活を象徴しています。
「衣食住」「財産」「名誉」「色欲」・・・。そして、絶大な「権力」 の完全掌握です。ですから、
だれが放棄しますか。しかし、”いのち”がけで求め
深く執着しても、もし実現出来なかったとしても、必ずすべては私から離れ、
逆に私がそのすべてから棄てられていくのです。

 世自在王仏は修行の完成された姿です。「衣食住」はいうまでもなく、完全な無一物です。しかし、
国王はそこに無限の豊かさと、真の充実と自信を感じたのでしょう。反面国王自身は豊かななかでの、
底知れない虚しさを感じ取ったのでしょう。だから、国王の生き方に変化が生じたのです。
実はそれを感じ取らせるのが、仏さまの姿であり、説法だといえます。

 現代人は「そんなバカなこと・・・」と、聞く耳を持たないでしょう。でも、よく考えて頂きたい、
単に「お話」をいうけれども、自分たちが当然と執着している、単一的な自己の欲望満足の価値観を、
相対化するはたらきをもっている「お話」ではありませんか。